閑話

 
 今日は思いつくままに、なんでもない文を書こうと思います。
 ということで、このタイトル。
 「閑話休題」という言葉の感じが好きで、それを使いたいばかりに、話をわざわざ横道にそらしたりしていたことがありました。若い頃。気に入った言葉って、使いたくなるんですよね。書きたいテーマとは全然関係ない。「ほとほと呆れる」の「ほとほと」も好きでした。小さく口の中で「ほとほと」なんて呟いてその語感を味わったりして。これも、全然「ほとほと」の意味と関係なくなっちゃってる。文章を書く人は、大なり小なり、そういう言葉オタクの面があると思います。
 ということで、今回は閑話だけ。
 このところ、何年も滞っていた案件がにわかに雪解けしたかのように同時に動きだし、何からどの順番でやればいいのかと少々慌てながら、あちらこちらと歩き回る日々を送っています。嬉しい悲鳴、と言いたいところですが、全部自分のやりたかったことなのに、そのせいで忙しくなることに、ふうと溜め息をついている自分もいます。その自分に対しても、「まだそんな息切れする歳じゃないだろう」と、さらに溜め息が出たりします。こういうのを「追い溜め息」とでも言うんでしょうか。
 誰に強制されたわけでなく純粋に自分のやりたいことなのに、同時に億劫に感じる心は不思議だなと思います。このカタヨリ荘でも、書きたいことは本当に山のようにあって、でも、かねがね書きたかった題材を前にすると、それを書くことを億劫に思う自分をよく感じます。一番書きたいことなのに、一番億劫で、逃げ出したくなる。やめたところで誰も追っかけてこないのに。ゴールに誰かが待っているとも限らないし、本来はとても自由で気楽なことのはずなのに。
 やりたいことだけに、これでよしと納得できるレベルまでちゃんとやりたい。まずその、勝手に自分で作ったプレッシャーがあると思います。そしてそれをやるには相当のエネルギーと時間が必要になるのを知っているから、えいと腰をあげるのを躊躇するのだと思います。いい加減な文章を書く時は、文字を置くことが純粋に楽しくて、すらすらと行が進むのに、ずっと書きたかったことは、「こうじゃない、これじゃニュアンスが違う」と、うんうん何時間唸ったあげく数行しか進まないことがよくあるから、それが辛いのです。そんなこと言ったって書かなければゼロなわけだし、乗り越えなければ仕方ない、やりだしちゃえばいずれエンジンがかかってくることもわかっていながら、やはり書き始める前にはいつも躊躇する。
 だから時々、締め切りという存在に救われたりします。自分の書きたいことを、自由に好きなだけ、自分の書きたいペースで書きたい、と思っているくせに、本当に自由にしたらきっと週に1本というペースでなんて書けたりしないのです。本当に気分の乗ってくるのを待ってなんかいたら、いつまでたっても書きやしない。そんな風にしていると、ある時にわーっと自己嫌悪が襲ってきて、書く気分からさらに遠ざかってしまったりするので、そんな最悪の状態に陥らないためにも、書き出す踏んぎりをつけてくれる締め切りがありがたい。それに書き終わるためにも。ほっておけばいつまでも推敲し続けたくなってしまうところを、締め切りだから仕方ない、雑でもいいや、あとでいくらでも直せるから、と、えいっと目をつぶって投稿ボタンを押す最後の勇気を、締め切りがくれたりします。締め切りのせいにしたがるなんて、人間て弱いなあと思います。後押しをしているのに忌み嫌われるなんて、締め切りくんは可哀想。
 ということで、この閑話。
 書く行為自体が嫌いにならないためにも、毎回毎回力の入った文を書こうとせず(え、力の入った文てあったっけなんて言わないでください)、時々、落書きみたいな文章も書かないと、と思うのです。途中で推敲をせず一筆書きみたいに書ききって読み返してみると、意外と面白くて書きたいことが書けていることも実はよくあって、じゃあこれの方がいいんじゃんと情けなくなることも多々あるけれど、やはり下手くそであっても本当に書きたいものに取り組みたいし、ですます調だったり喋り言葉だったり、統一感もなく、当たり外れのある文章に、これからもどうぞよろしくお付き合いください。
 

(2018年6月)