千駄ヶ谷で

 
 千駄ヶ谷は、自分の中ではなんとなくヨーロッパの市街のイメージだ。建物と街路樹のバランスが、そう感じさせるのかな。冬は特にそう感じる。散歩したくなる。僕は冬の散歩が一番好きだ。
 ビルやマンションが多い街だけれど、一階がお店になってる所がまばらにあって、でも必要なだけある感じで、必要な人だけ来ればいいという雰囲気で開いてて、そのがっついてない感じが、ヨーロッパ的だなと思う。洒落てるんだけど、これ見よがしに押しつけてこない感じ。建物の多さにくらべると心なしか歩いている人もまばらな感じで、それも外国っぽく感じる理由なのかな。アジアってやっぱり人混みと喧噪というか、どこに行っても人がいる感じじゃない?
 ぴん、と冷えた冬の空気を胸いっぱいに吸い込みながら歩く。カミさんも娘も、僕の知り合いの誰ひとりも、僕が今ここを歩いていることは知らないんだよなあと思い、いつものようにほんのちょっとだけ不思議な気持ちになる。なんて言ったらいいのかわからない不思議な気持ち。少し寂しいような、完全に自由で解放されているような。RCサクセションの『トランジスタラジオ』の歌詞の「ああ、こんな気持ち、うまく言えたことがない」って、まさにこんな感じだと思う。
 僕にはよくこんな時間がある。僕の仕事の楽しみのひとつは、いろんな街を見ることだ。衣装合わせでもロケでも取材でも、本当にいろんな街に行く。遅刻は嫌だから、たいがい早めに着いて辺りを散策する。散歩も好きだから一石二鳥だ。街の声を聴きに、と僕はよく言っている。
 千駄ヶ谷の澄んだ青空を仰ぎながら歩いていると、先まで見通せる街路樹の一部分に、ビルとビルの細い隙間から陽の光が斜めに強く差し込んで、ある一本だけが、まるで自分で光を放っているかのように眩しく輝いている。
 その光景があまりに美しくて、しばらく立ち尽くして眺めてしまった。ふと、周りに同じように見とれている人がいないかと見回してみたが、誰もいなかった。
 銀河系の中の、地球という星の、日本と呼ばれる島の、千駄ヶ谷という街のある一本の道で、壮大な宇宙の歴史の砂時計の一粒にもならない今この瞬間、街路樹の1本に太陽の光が降り注いで葉っぱが光っているのを僕は見つめている。こんな感じ、うまく言えたことがない。iPhoneを構えてみるけど、この感じって写真に撮っても伝わらないんだよなとあきらめる。うまくは言えなくても、家に帰ったらこの景色のことを家族に話そうと思う。
 幸せというのは、共感する誰かが側にいてくれることだと思う。または、話したい見せたい誰かがいることだと思う。娘もいつか大人になって一人で街を歩く時、今の僕と同じような瞬間を感じることがあるだろうか。いつの日か、そのことについてお喋りしたり、「そうそう、わかる」と頷きあう機会があれば、すごく幸せだと思う。
 

(2017年12月)