久々に短編を撮る

 
 しばらくお休みしていた短編映画の連作の製作を初夏あたりから再開していて、明日は久々に自分が監督する作品の撮影があるので、今日はその最終準備中。
 短編とはいえ、一つの作品を作るにはやはり膨大な手間と細心の注意が必要で、気軽にできるもんじゃないなと改めて思う。
 おまけに僕らの場合は最小人数で稼働しているため、カット割りを考えたりするだけじゃなくて、予定表を作って連絡を回したり、小道具を作ったり、ロケ場所近くの駐車場をスタッフのために確認してきたりカメラのバッテリーをチャージしたりというような製作的な準備もしなくてはならず、それも普段の俳優の仕事の合間を見つけてはこなさなくちゃいけないので、撮影日が近づくと、もう頭が本当に爆発しそうになる。短編はスケジュールの入れ替えが効かないことがほとんどだから、天気予報を見ながら一喜一憂したりして、ホント心臓にも良くない。
 昔みたいに撮影日の前日に興奮して寝つかれないというようなことは流石になくなったけれど、やっぱりイン前日は自分が緊張しているのがわかる。今までにもたくさん作品を作ってきたし、今回も気心のしれたスタッフばかりでやるのだから、楽しいだけのはずなのに、やっぱり毎回緊張してしまう。役者をやっている時にはこんな風に緊張することはほぼないから、向き不向きから言うと俳優の方が性に合ってるのかなと思うけれど(まあ、駐車場の場所や弁当の個数や天気図を気にしたりする必要がない俳優の方が気楽ではあるのは当たり前なんだけど)、でも何故かまた監督をやってしまう。そして始めた途端やっぱり次々と予測不能の問題が悪魔のように笑いかけてきて、なんでこんなことになっちゃったんだろう、やめときゃよかったなどと何度も泣きそうになる。こんなに心臓に悪い仕事はないと思う。プロの監督になんか僕は絶対になれないと思う。それでもやめられないのは、本当に面白いことは面倒くさいことの先にしかないって、わかってしまっているからなのだろうと思う。
 昔、大島渚さんが、脚本ができてスタッフ・キャストが決まった時点で映画の80%は出来ているんですよと仰っていて、僕もまったくその通りだと思うし、あとの20%は現場で起こる新鮮な出来事をいかに見逃さずに画面に収められるかだと思うから「あとは現場に行けばなんとかなるよ」という腹の括りはあるし、当日体調がめちゃくちゃ悪くてまったく頭が回らなかったとしても出来上がる映画はやっぱりそんなに変わらずにいつもの僕の映画になるだろうと思いつつも、我が師・岡本喜八監督が常に言っていた「準備は苦しく、現場は楽しく」の言葉通り、できる準備はすべてしておかなければと思う。多分、そのための緊張なのだと思う。
 脂汗を流しながらカット割りを書き終わって、ほっとしながら寝床に入った途端、もっといいカットを思いつき、すぐにまたむっくり起きあがって、書き直したりする。一時間多く考えると一時間分だけやっぱり良くなることを知ってしまっているから、どうしても手が抜けない。ハナから出来ないことはたくさんありつつも、自分の努力でなんとかなる部分に気がつかないで終わってしまうのは怖いし、あきらめられない。
 そしてあらゆる事態を想定したつもりで臨んでも、結局、現場では必ず予想もしてなかったことが起こるのだけれど。それを爆弾処理班のように青か赤のワイヤかと瞬間的に切り抜けて、気がつけばあっという間に撮影が終わっている。「あ~あ、結局あの準備全部、意味なかったね」と笑い合うことばかりだけれど、その準備がなければ次のアイデアも生まれなかったと、本当は思っている。
 

(2018年10月)