年賀状について

 
 ねえ、提案があるんだけど。
 年賀状のことなんだけどね。来年から、年賀状はちゃんと年が明けてから書くことにしないかね?
 またなにを言い始めたんだ、こいつ? と思うかもしれないけれど、かなり真剣に僕はそれを提案したいと思い始めているんだ。
 というか、そもそも年賀状というものは、書きぞめと同じで、年が明けてから書くもののはずだよね? それが、「早めに出してくれないと忙しくて仕方がない」という郵便局の勝手な都合と、元旦に年賀状が着けば受け取る方も気分が良いだろうという過剰包装的な日本特有の親切意識が合わさって、年賀状は年末までに揃えて出すのが当たり前という現在の習慣になっているわけだ。
 でもさ、元旦でもないのに元旦と書いたり、まだ年が明けてもいないのに「昨年は」とか「今年もよろしく」なんて書くのは、やっぱりそれ、「嘘」なんだと思うんである。いや、これからもよろしくという気持ちは嘘じゃないだろうけれど、「あけまして」「昨年」「今年」「元旦」という言葉には間違いなく気持ちが入っていない。入っていたら逆に時間の感覚がそうとうおかしい人だ。
 つまり、ほとんどの人がプリントで処理している「あけましておめでとう」など一連の文句は、単なるデザインでしかなく、ほんのすこしだけ残っている余白の手書きの一行コメントが唯一、気持ちの部分なわけだよね。そんな手紙ってありなんだろうか?
 確かに元旦に年賀状が届くのは楽しい。でも、書く方から考えてみると、残念ながら、たいして気持ちはこもっていないんだよね。
 そもそも、郵便局の都合に合わせるこたあない。近年じゃ、年賀状を出す人が少なくなってきたのに危機感を感じたのか、年明けにも書こうなんてCMで言ってるぐらいで、「年明け年賀を、書きませんか」なんて、もはやなんのことだかわからない。「年明け年賀」なんて言葉はもう二重の矛盾で、自家中毒が起きちゃってる。

 日本ってさ、本当にごまかしばっかりの国でしょ。
 安全検査が基準に満たなかったのに数字を何年もごまかしていたとか、不正表示だとか、経費ごまかしとか脱税とか粉飾とか談合とか不正献金とかリベートとか、もう、週にいっぺんは必ずそういう「ずる」のニュースを見るよね。そういうニュースがなかった週なんか、ないよね?
 発覚しただけでこれなんだから、本当に皆やってるんだろうなって思う。そう皆が思ってるから、やる方もまたやるのが当たり前になっちゃっていて、もう麻痺の悪循環が起こっちゃってるんじゃないかって気がする。だって、何千人何万人の人が勤める会社で、そんなに何年も不正が発覚しないで済むのって普通? 「これまずいんじゃないですか」って誰一人も言わなかったんだろうか? クビを覚悟でご注進するとか匿名でマスコミに告発するとか、まったく誰一人もしなかったってこと? これさ、「ごまかすのはしかたない」っていう意識が全員にあったからとしか思えない。
 法律には反してなくてもさ、「無料!」と大きく書いた広告の端っこに、読めないぐらいの※印付きで「ただし、〜の場合」なんてこっそり書いてるのを見ると、ああ、なんで誰もが知ってる大企業がそんなごまかしっぽい真似するんだろうって、よく思うの。「お客さんのことを真摯に考えながら自信と誇りを持って進んでいれば、必ずついてきてくれる」より「社会っていうのはそんなもんじゃないんだよ」に思いっきり天秤が傾いちゃって、もう地面にべたって付ききっちゃってるなあと思う。この、ごまかしを可とする意識はもう日本中にこびりついちゃってるんじゃないかしら。
 政治家はずるをするということがあまりに広く認知されてしまって、「正義」や「みんなのための」という言葉は建前だと誰もが思ってしまっている。政治家の方も「あれはホラ、建前だから、ホラ、そこんとこわかるでしょ」って暗黙の了解で済むと思ってる。みんながわかってることなんだから悪いと思っていない。「議論を尽くしたい」って言って本当に議論を尽くしたのを僕は見たことがない。「十分尽くした」とか言いながら多数決で強行採決したのしか見たことがない。言葉がその意味を失って、枕詞とか、もしくはただの記号になっている。だから、なかには本当に清廉潔白な政治家ってきっといるはずなのに、世間はもはや信じていない。そんな中でホワイトでいつづけるのは苦行だろうなと思う。
 でもね、不正をしなければいいと思うの。あ、今、笑った? でも、すごく間抜けに聞こえるかもしれないけど、本当にそう思うわけ。だって、不正って、「しなくちゃいけない」もんじゃないと思うの。単純に政治家や権力者が不正をしなければ、日本の経済なんて完全になりたつと思う。システムが悪いんじゃなくて、その中でずるをする人のせいで、機能しなくなってるというだけだ、とよく思う。皆で知恵を出し合って真剣に考えるということをシンプルにやれば、解決策は必ずあるはずなのに、そこを信じる人の割合が年々減ってきている気がしてならない。

 この国で、誠実や愚直というものは、鼻で笑われて久しい。
 「嘘はいけません」なんて子どもに言っても、説得力がない。「言ったことには責任をとりなさい」なんて言ったって、責任取らずに逃げちゃう人ばっかりじゃあ、説得力なし。刑務所なんか入らなくてもいいんだもんね。減俸とか降格、せいぜい解雇程度。聞きなれない難しい言葉で謝れば、それで良いんだもん。現場の人間は「ノルマをこなすためには仕方なかった」とか上司のせいにして、上の人間は「知らなかった」と自分が実行犯じゃないと主張する。謝るけど、それは代表の責任としてであって、本当はオレ悪くないんだけどみたいな意識で頭下げられても、ね。なんだろうこの気持ち悪さ。ひもじいから盗んだとか腹が立ったから殴ったっていう事件の方が純粋で清々しいなんて思っちゃう。
 モラルが崩壊してる。「嘘をついてはいけない」「自分のやったことに責任を取る」ということが建前でしかないなら、もはや基準がなくなっちゃってる。
 で、最初の話に戻るんだけど、もしかしたら、それらのもろもろ全部が、そもそも一年の最初からごまかしが始まっちゃってることが影響しているんじゃないかと思ったわけ。
 元旦でもないのに、元旦。今年でもないのに今年もよろしく。

「デザインだと思えばいい」なんて言い訳しても、まあ嘘は嘘なんだよね。
 この、嘘を許容することが、建前ばかりのこの国を象徴しちゃっているんじゃないかと思ったりするのよ。
 国中で、都合によっては嘘ついても良いんだよと、年の初めから宣言してしまっている。「嘘も方便」とはいうけれど、年の初めの挨拶から嘘ついてたら、「嘘をついてはいけません」なんて教育は、そもそも成り立たないんじゃないかしら。

 年賀状なんて、4日につこうが7日に着こうがいいじゃないか。確かに元旦に着くのは気持ちが良いのかもしれないけど、それより、宛名も手書きの一通が届く方が僕は嬉しい。
 どうしても早い方がいい人は、メールでもラインでも全然いいと思う。ただ、願わくば、一斉配信じゃなくて、一通ずつ、と思うのだ。一応送っときゃいいってんじゃなく、落ち着いて、一通一通、その人を思い浮かべながら、今年もよろしくと書いたら、いい一年が始まるんじゃないだろうか。知ってる人全員に一応送る必要なんてないと思う。送らないと気を悪くするんじゃないかと考えるなんてくだらない。そんなことで気を悪くする人となんか付き合わなくていいよ。少なくとも僕には、気遣いで年賀状なんか送ってくれなくてもいい。数年にいっぺんでも思い出してくれた時に「どうしてる?」なんて一言をくれたら、飛び上がって天に上るぐらい喜ぶよ、僕は。

 気持ちの薄い挨拶はやめにしようよ。
 挨拶の重みを、出す方も受ける方も感じた方が良いと思う。

 元旦の過ごしかたは、そういう方がいい。
 いや、提案だけ。人それぞれの考えはあるからね。
 でも、「そうはいっても」と言い捨ててしまう前に、一理あるかもと頭の隅で思ってもらえれば。

(2017年11月)