パルムドールに思う

 
 是枝裕和監督が、カンヌ映画祭のパルムドールを受賞した際のスピーチで、「映画を作り続けていく勇気をもらいます」と言ったのを聞いて、自分が関わっていない映画ながら、その気持ちがとてもよくわかって感激した。
 数少ない経験ではあるけれど、自分もいくつかの海外の映画祭に参加したことがあり、確かに作り続けていく勇気をもらったし、映画祭における賞というのは、一番を決めるものではなく、励ますためのものなのだなと、強く実感した思い出がある。
 参加するとわかるのだが、ひとつの映画祭にも、実はたくさんの賞がある。コンペティションだけでなくいろんな部門があり、それぞれの部門に賞があり、さらに面白いのは、そういう公式の賞以外にも、いろいろな外部の団体やグループがいろいろな賞を作って、勝手にあげたりしている。映画雑誌が主催する観客人気投票による賞とか、宗教色があるなしにかかわらず良質の映画だと思う作品に与えられるキリスト教会賞とか、バラエティに富んだ実にたくさんの賞があって、そういう賞の色もまた、映画祭を盛り上げる華になっているのだ。便宜上その映画祭公式の賞としてグランプリが設定されているけれど、それ以外でも、あげたければみんな勝手にどんどんあげていいことになっているようなのだ。こういうところは、「ああ、映画祭というのは、本当にお祭りなんだな」と感じさせてくれる。
 受賞したから取りに来てくれと部屋にメッセージがあって行ってみると、にこにこした数人の人たちが待っていて、賞状だけはいと渡されることもあるし、時には賞金が付いていて、それも250ドルなんて可愛らしいものもある。何千ドルもらうより、そういうものこそ、気持ちを感じてすごく嬉しかったりする。そして、勝手にあげるというのが面白い。その気になれば個人が賞をあげてもかまわないのだと思う。こういうことを体験すると、賞というのは、一番を決めるものではなく、あなたの映画をきちんと受け取った人がいるよ、そしてあなたのこれからを応援している人がいるよ、というメッセージなのだと感じる。
 そして、公式の最高賞を受賞する作品は、時として賛否両論を醸したりするような、とても個性の際立った意欲的な作品であることが多い。特にカンヌ映画祭ではその傾向が強いと思う。これは、「それが一番良い映画で、皆こういう映画を作るべきだ」というメッセージではないのは明らかだ。むしろ「こういう映画が作られなくなったらいけない」という、励ましのためのメッセージであるのを強く感じる。
 もしこの映画が評価されなかったらもう二度と映画を作らなくなってしまうかもしれないと思うような、作家のすべてをかけたような作品が受賞したり、特には、検閲によって自国では上映できない作品を持って亡命覚悟で参加している監督もいて、そういう作品が賞を取った時は、本当に感動的だ。監督が涙を流しているのをみると、作り続けていく勇気を、いや、たとえもう次が作れなくても生き続けていけるだけの勇気をもらったのだろうと、こちらまで嬉しくなる。その賞は、やり遂げたことへの評価だけではなく、未来への応援メッセージであるし、そのことが一番大切なことなのだと思う。
 上映回がすべて即完売になるような大人気作は、案外受賞しなかったりする。これは、コマーシャル的な作品をばかにしているというひねくれた考えではなく、もうすでに成功を約束されていることが明らかだし、観客からの熱い反応ですでに賞をもらったのと同じだと思っているからなんじゃないかと思う。確かに、何分にも渡るスタンディングオベーションを受けでもしたら、もうそれだけで最高のご褒美はすでにもらっていて、この思い出があればもう賞なんかいらないと、本気で思うはずだ。だから、賞はあくまでもおまけのようなもので、その賞をもらったことをずっと大事に思い続けてくれる人に渡されるような気がする。
 だから日本のマスコミが「日本映画は受賞ならず」とよくニュースに書いているのに僕は違和感を感じる。獲ったことを褒めるのはいいけれど、獲らなかったことをわざわざ話題にするのがわからない。その映画祭に出品するだけですべての映画がもう賞をもらったようなものなのに、最高賞を獲らなければ大したことないように思われるのは、本当に心外だ。
 芸術はスポーツと違って、公式の一番を決めるものではない。自分の感性で、自分だけの一番を決められるから良いのだ。映画祭もその名の通り「お祭り」なのであって「競技会」ではないわけで、だから公式の一番を決めるためのものではない。出品者たちはライバルなどではなく、みんな違う映画だから、お互いにリスペクトして讃えあう。多様性こそが映画にとって大切なことだ。映画祭によって、バイオレンス表現を好む傾向がある映画祭があったりと、受賞しやすいタイプの映画があることはあるのだけれど、最高賞といえ、その年の審査員が相談して選んだ賞であって、審査員たちが違えば受賞作もまた違っただろうと、参加した映画人たちはみなわかっている。決して最大公約数的な一番を決めようとしているのではない。だからカンヌ映画祭などは誰が審査員かも毎年の大きな話題にしているのだと思う。審査員に選ばれることも、またひとつの賞なのだ。あなたは映画という文化において重要な存在ですというリスペクトを示されたわけで、それは大変な栄誉だと思う。少し話題が逸れてしまうけれど、北野武監督が『HANA-BI』でベネチア映画祭で受賞した時、その審査員のひとりに塚本晋也監督がいたことを(日本人としては大島渚に続いて2人め)、日本ではほとんど書く人がいなかったのが、僕は残念だった。賞を獲ったということだけの簡単な事実に括られてしまって、ああ日本はやっぱり権威とかお墨付きとかが好きな民族なんだなと思った。誰が選んだか、どうして選んだかという理由より、いつも獲った獲らないの話題だけで終わってしまう日本の狭さが残念だといつも思う。
 『万引き家族』が受賞して本当に良かったと思うのは、それが是枝さんにとって、『誰も知らない』と『そして父になる』と並んで、どうしても撮りたかった映画に違いないからだ。テレビのドキュメンタリーを多く作りながら現実に生きる人々をずっと見つめてきた監督にとって、現実の事件をベースにしたこれらの映画こそ、是枝さんが一番興味を持つ題材であり、是枝映画の本質だと思う。だからこそ、受賞して本当に嬉しかったと思うし、「自分は間違っていなかった。これからも、自分の作りたい映画を作っていいのだ」と、これからを生きる勇気をもらったのだと思う。
 もちろん『三度目の殺人』も『海街diary』も、是枝さんにとって作りたかった映画だろうし、繊細に真摯に作り上げただろうと思うけれど、『万引き家族』は自身のオリジナル企画であり、今の日本映画はほとんどが原作ものである中で、こういう作品の企画を通すことは、そのタイトルからして、相当な困難があっただろうと想像する。たくさんのネガティブな意見も聞いただろう。それでも、是枝監督は、この作品を撮りたかったのだと思う。この映画が世界に存在したほうがいいと信じ、様々な困難を乗り越えて、勇気を持ってこの映画を作ったのだと思う。
 今、是枝監督は、一緒に困難を乗り越えて頑張ってくれた仲間たちとともにこの受賞を喜び、また後に続く若い作家たちにも勇気を与えられたことを、心から喜んでいると思う。賞を獲った映画だからありがたく観て欲しいなどとは決して思わず、むしろ賛否両論でいいから、感想を語り合ってもらうことを、なにより望んでいると思う。
 映画における賞は、順番や優劣を決めるものではなく、励ましのためのものであると書いたけれど、さらに、映画を愛する人たちには、その映画たちについて語り合うきっかけを作るためのものでもあると思う。アメリカにラジー賞という、その年の最低映画を決めて表彰する賞があるけれど、あれも、やはり映画を愛している人たちがやっていることは間違いない。ただ貶めるのではなく、盛り上がってその映画を語るためにやっている。「最低賞を取ったから見ない」ではなく、逆に「どんなもんか見てやろう」というモチベーションまで引き起こす。それに、「誰に最低と言われようと、俺はあの映画を愛している!」というファンも必ずいるし、そのことは否定されたりしない。また受賞した人たちも、あえて賞を受け取りに出席したりして、それがさらに盛り上がったりする。つまり、わいわい、語り合いたいのだ。そのために賞がある。棚に置くためにあるのではないのだ。
 この受賞をきっかけに、たくさんの人が映画館に『万引き家族』を観に足を運んで、色々語り合うきっかけになったらいいなと思います。
 是枝裕和監督、改めて、カンヌ映画祭パルムドール受賞、おめでとうございます。
 

(2018年6月)