今日はなにをしようかな

 
 「大人になると、やりたいこととやらなきゃいけないことだらけで、退屈なんてなくなるから、今のうちにたっぷり味わっておくといいよ」と娘に言ったら、「つまんないなーっていう時間はあるけど、退屈な時間なんてない」らしい。たいして家の手伝いもさせていないから忙し過ぎるということでもないと思うので、それはおおむね生活に満足しているという解釈でいいんだろうなと思いつつ、へえと感心したりする。テストを書き終わって時間が余った時みたいに、もう何もやることないのにじっとしてなきゃいけない時間とかは退屈じゃないのと聞くと、「ああ、まあそれはちょっとはね」ぐらいの反応なので、空想のネタとかは充分にあるんだろうね。
 でも、ただただ遊んでいた自分の子供時代とは比べようもないけれど、何もやれることがなくなった時の退屈感というのは、子供時代の自分にはもっと頻繁にあったような気がする。時代的なこともあるのかなと漠然と思ったりもするが、まったく漠然として根拠も何もないので、きっとたぶん、自分が多動気味だったのだろう。
 でも、退屈があるから「何をやろうかな」と思うわけで、やりたいことやらなくちゃいけないことが何もなくなったデフォルトの状態が退屈だとすれば、退屈ってすごく贅沢だし、素敵だと思うのだ。
 18才から社会に出てから一度も会社員になったことがないということからか、自分はひとつのことを地道にこつこつとやり続けることができないのではという、自分に対する不信が僕には長いことあった。脚本を書いたり映画を作ったりするのも、途方もない忍耐と時間を使うものだけれど、それだって「完成」という報われる区切りがあるからやれるのだと思っていたし、そもそも大好きなことやってるんだから我慢できて当たり前で、別に好きでもないことでも必要であれば自分はずっと投げ出さずにやり続けられるのだろうかと、時折ふと頼りない気分になることがあった。
「あんた、今まで好きなことしかしてこなかったでしょ」とからかうように言われて、よく考えてみると確かにそうだなと自分でも笑ってしまったことがあるけれど、それが自分の弱みのような気になることがたまにあった。自分の中に放浪癖があるというのは早くから自覚があったから、一つの集団にどっぷりと浸かるのを若い頃から避けてきた面があったし、約束を破りたくないからなかなか約束をしないとか、責任をきちんと果たしたいから大事なことは簡単には引き受けないというのは、自分の中のモラルとしては正しいのだけれども、子供の理屈と言われてしまえばそうかもしれなくて、社会人としてはどうなんだろうという自信のなさがどこかにあって、自分にも地に足がついた「こつこつ」ができることを何かで証明して自信をつけたいという気持ちは時々よぎった。
 四十を過ぎた頃、改めて「継続」を意識したのは、やっぱりたぶん子供のことがあったと思う。産んだ以上は育て続けなければいけないのはもちろん、子供が小学校にあがれば、学区のこともあるから気分でふらふらと住む場所を変えていくこともできないし、好きな時間に寝て起きても当然できない。子供を中心に置いて生活を組み立てていく上で、これが「継続」を経験するいい機会だと思った。
 ということで、これを機会にと、いろいろな継続に挑戦してみた。娘の小学校で読み聞かせのボランティアを六年間続けたり、俳優のためのスタジオというものを立ち上げてみたり、ライフワークスという短編映画のシリーズも定期的に作り続けたりしてきた。週一でエッセイを連載するこのカタヨリ荘も、もしかしたらその「継続」を意識した一つなのかなとも思う。
 とにかく、そうしていろいろ続けてみたら、想像していたより苦にならなかったし、自分にもけっこう「こつこつ」が向いている面があることがわかった。そしてそれは苦行のようなものではなく、別の種類の楽しさを僕に味わわせてくれた。なにしろよかったのは、「やりたくないこと」が減って、「好きなこと」の種類が増えたこと。この十年で継続することの楽しさは充分味わったと思う。
 自分はこつこつもできるとようやく自覚できたおかげだと思うのだけれど、ここ最近の僕の望みは、また変わってきている。
 二十代の時のように、朝起きて、布団の中で「今日は何をしようかな」と思うあの感覚を、もう一度味わいたいのだ。
 やりたいことは相変わらず山のようにある。だけどそれを、スケジュールを作って一つ一つこなしていくようなやり方でなく、今日はそのうちのどれを選ぼうか、その中のどれをやったら今日一日が一番楽しく夢中でやれる時間になるかな、と考える生き方をしたくなってきた。足りない穴を埋めていくようなやり方ではなく、目の前のやりたいことだけに純粋に集中して、そのわくわくを楽しみたい。「あの人、いつも楽しそうにしてるよね。なんでも楽しそうにやるよね」と言われるような人に戻っていきたい。側から見ると、ずっとそのまんまじゃんと言われるかもしれないけれど(笑)。自分の中での長い長い実験が終わったから、これからはまた、難しいことを考えずに好きなことだけをやってみたいのだ。だから、思い切って、「いつかやりたいこと」は「やらなくてもいいこと」だと一旦割り切ってしまおうなどと今の僕は思っている。
 達成することより、すべての日々を純粋に楽しむ生活を過ごしてみたいと思う。これから残りの人生において退屈というのはもう一生ないのだとは思うけれど、「さあ何をやろうかな」と一から考える贅沢をまた何年間か愉しんでみたい。そのために、このところの僕は、今ある継続をひとつひとつゆっくりと外していく計画を立て始めている。取り外すのに何年かはかかると思うけれど、その頃には娘の義務教育も終わっているし、やれることの幅も大きく広がっているはずだ。家族全員で「今日は何をやろうか?」とわくわく顔を見合わせる朝を、僕は今から楽しみにしている。
 

(2018年9月)