文字は七歳までいらない

 
 娘の通う幼稚園は、7歳までは文字を覚える必要がないという考えで、ひらがな表をみんなで元気よく読み上げさせるみたいなことはしない。それは僕も賛成なので、家でも、わざわざ文字を教えようとしたりなどはしないできた。
 
 実際、6歳の子供の生活にとって、文字が読めないことで困ることなどない。不自由がないのだ。
 子どもの記憶力は驚異的で、文字など読めなくても、絵本を何十冊も丸ごと隅から隅まで覚えていたりする。1回読み聞かせただけのものでも、どのページにどのくぎりまで書いてあるか完璧に覚えていたり、まるで本当に読んでいるかのようにきれいに音読して見せてくれたりして、もう、本当にびっくりする。本を一冊丸ごと覚えちゃうなんて、ブラッドベリの『華氏451』みたい。娘は、一時、紙芝居が大好きで、見るだけじゃなく読み手にもなりたがり、今一回見ただけなのにどのページも間違うことなく完璧に再現するのを見て、感動したことがある。ウチの子すごいでしょうと自慢したい訳じゃなくて、子どもを持つ親は誰でも、子供のこの能力でびっくりした経験があるはずだ。
「あの本どこだっけ」と探していると、背表紙だけで「これ」と指さす。「あれって、どんな話だっけ」なんて聞けば、内容どころか、登場人物の名前の全部まで覚えていたりする。もう長いこと開いていない本だとしても、だ。
 きっと、脳のハードディスクに見るもの聞くもの全部書き込んでいるんだろうな、と、改めて子どもの記憶力に感心する。ひょっとすると、子どもはみな小さい頃は直感像記憶を持っているんじゃないかと感じることがある。映像記憶ともいい、ビデオのように、すべて後でいくらでも巻き戻して見ることができるという能力だ。南方熊楠は直感像記憶の持ち主で、図書館で百科事典の内容をすべて覚え、あとで全部思い出しながら書き写すことができたという。そこまで行くともう特殊なのかもしれないが、とにかく、子どもはみな、それに近い能力を秘めている。
 でも、文字が読めないからこそ、なのかなとも思う。文字を持たなければ、大事なことは全部頭の中に置いて持ち歩かなくちゃいけないから、文字が無い方が記憶力が鍛えられるんじゃないかと思うのだ。 文字を知っている僕ら大人は、いろいろな情報を脳の外に記録しておこうとする。そうしておけば安心して忘れられるから、本当にすぐ忘れるし、そもそもあまり集中して覚えようとしない。文字を覚えることは、記憶力の衰えの始まりなのかもしれないのだ。昔は、親しい人の電話番号は二、三十件ぐらい空で言えて当たり前だったけど、携帯電話が普及するにつれて、せいぜい自宅と自分の番号ぐらいしか覚えていない。数字をプッシュする必要がないため、親の家の電話番号までいつの間にか忘れてしまっている。
 もうひとつ、小学校に入るまでは文字が読めなくていいと思う理由は、子どもに、文字が読めない季節をたっぷりと味わって欲しいと思うからだ。一旦読めるようになってしまうと、もう読めない頃には戻れないからだ。絵本を眺めていても、絵本の絵だけをたっぷりと飽きることなく眺めることが難しい。文字に邪魔されるのだ。
 街を歩いていると、どこを向いても文字が目に飛び込んできて、一瞬のうちにそれを読んでいる自分がいる。風景をただ風景と楽しむのではなく、そこから情報を取り出そうと脳が勝手に動いてしまうのだ。だから、モンゴルやウイグルなどアルファベットすら書いてない国に行くと、その風景に感動する。文字がデザインにしか見えなくて、なんだかわくわくする。
 
 急いで文字を覚えなくていい、といっても、絶対に覚えてはいけないということでもないし、子供の興味を押さえつけてはいけないので、「これ、なんてよむの?」と聞かれた時は答えてあげるようにしていたら、やはりどんどん読めるようになっていく。それも、最初は単語全部でひとつのマークみたいに覚えていたのが、少しずつ文字単体でも読めるようになっていくようで、5歳の時のお正月に、犬棒カルタに興味を示して「やりたい!」と言ったのを機会に、いったいどれくらい読めるようになっているのかを調べてみたら、もう約半分ぐらい読めるようになっていて、すごいもんだなと感心した。
 それから三ヶ月ぐらいしてまたやってみたら、今度はほとんど全部の文字を読めるようになっていた。
 覚え始めると、今度は読むのが楽しくて仕方ないらしく、街にある文字を片っ端から読んでいく。
 「ほら、あそこのかど、『たばこ』ってかいてあるよ!」と。
 いつも歩いている道が、違った見え方をし始めたことにわくわくしている彼女がいる。ああ、ついに文字の季節に入ったんだな、と、その成長に、嬉しくもあり、ちょっぴりさびしくもあった。 
 娘が6歳になった頃、ふたりで寝っ転がりながらお喋りをしていると、「たばこって、はんたいからよむと、こばた、なんだよ」なんて娘が言った。あはは、それじゃ、ごりらは? なんて遊んで笑っているうち、はっとなった。つまりそれは娘が、文字を頭の中に置き、それを反対から読めるということなのだ。なにを当たり前のことをと思われるかもしれないが、僕は、その能力を彼女が自分で獲得したことに、人間の成長って本当にすごいな、と、感動してしまったのだ。
 その頃から、もう勢いがついたようで、読むだけじゃなくて、今度は書きたがる。どうもお手紙遊びをやりたいのが動機らしくて、「ねえ、ここに“み”って書いてみて」と聞きに来て、書いてあげるとそれを一生懸命練習する。
 結局、小学校に入るまでどころか、6歳半で、ひらがなもカタカナもほとんど書けるようになってしまった。
 仕事机の上にお手紙が置いてあるのにふと気づき、
「おとうさん すきだいすき おしごと がんばてね」
の文字に、胸が熱くなる。
 彼女にとって、文字のある世界が、素晴らしいものでありますように。