誰も羨ましくない

 
 娘が生まれてこのかた僕は、一日たりとも不幸な日はなかったと断言できるのだけれど、一方で、45歳過ぎたころに、小さな「ちぇっ」を感じることが増えた時期があった。
 どんな「ちぇっ」かというと、誰かがやたら売れ出してCMにいっぱい出ているとか、監督した映画が海外映画祭でスタンディングオベーションが止まなかったとネットニュースで見たとか、そんなこと。簡単に言えば妬みなのだけれど、それが「あんなにヘタクソなのに売れやがって」の「ちぇっ」だったらまだわかるのに、不思議なのは、昔からずっと頑張ってきたのをよく知っている俳優だったり、すごく良い作品に対しても、「ちぇっ」となったりすることだった。
 僕は基本的に自分のことを機嫌がいい性格だと思っていたし、誰かが良い仕事をしたり、頑張ってる人が評価されるのは、自分が褒められたみたいに嬉しくなってしまうと自分を思い込んでいただけに、そんな自分の暗い部分に、少なからず戸惑った。もしかしたら、本来の自分はこっちで、そういう闇をずっと否定し続けてきた結果、今まとめて噴き出しちゃってるんじゃないか、もしかしたら自分はとんだ偽善者なんじゃないだろうか、なんてことも考えた。
 いつもとぼけた顔でひねくれたことを言う友だちが、「自分の参加していない成功はすべて妬ましい」と言ったのに爆笑していたくせに、気がつけば自分がそんな感じになってしまっていて、ただ、その中にユーモアのかけらもないのがショックで、だから「ちぇっ」のあとには必ず自己嫌悪がやってきた。
 今考えれば、たぶんうつの時期だったのだろうと思うけれど、その頃は「自分はずっと友達が多い方だと思っていたけど、実は全然違うんじゃないか。だってこっちから連絡しなけりゃ誰も連絡してきやしないし、心配もされやしない」なんて、そうとうひねくれたことを思ったりもして、勝手に自分だけで疎外感を感じていたのだと思う。といっても表面上はそれまでとなにも変わらず、機嫌よく生きているようにしか見えなかっただろうから、周りのみんなは、僕が密かにそんな妬みを持っていることには気がつかなかったと思うけれど。
 そんなある日、急に売れだしたお笑いの人がCMに出ているのを見て「ちぇっ」となった時は、さすがに「なんなの、これは?」と呆れてしまった。だって、その人のことよく知らないし、そもそも自分はお笑いで有名になりたいわけでもなんでもないわけだから。
「いったいお前はどうなりたいんだ、利重!」と、思わず声に出して、部屋にこもって腕を組んだ。
 僕はなにをそんなに妬んでいるのか。なにが羨ましくて、どうして羨ましいのか。いったい自分はどうなりたいのか。これは一度ちゃんと考えないと、きっとロクなことにならないと思って、ひとつひとつ自分の気持ちを、包装のプチプチを潰すように、紙に書き出していった。
 まずわかったのは、僕が自分の能力に対して一般的評価が低いと心の奥底で不満に思っているらしいことや、自分を「ついてない」と思っていたりすることで、そんな自分に向き合うのはとても嫌だったけれど、そういう自分をいっぺんちゃんとわかってみないと出口は見つからないなと思った。
 そこで、もし誰にでもなれるとしたら、誰になれたら自分は満足するのか、想像してみた。それは俳優でも監督でも、もちろん他の職業でもいい。でも「オリンピック選手になって金メダルを取る」とかいう絵空事はダメで、今の自分の能力で可能な範囲の想像に限る。
 たとえば俳優だったら、今の誰になれたら満足するのか。
 すると、しばらく考えてみても、これが浮かんでこない。ここ数年で「あの役は俺がやりたかった!」と地団駄を踏むように悔しい作品って正直なところ無かったし、感動した演技はもちろんあるけれど、それはその俳優さんだからこその味が出ているものだったから、たとえ自分が替わったところでそれ以上に良いものになるとは思わなかった。この辺はまだまともな判断を持っているなと自分に少しホッともした。
 じゃあ、もっと大傑作になるかもしれなかったのにもったいないと感じた作品の主役を自分が替わりにやってたらと想像してみたものの、実際のところ俳優っていうのは監督次第で良くも悪くも見える面もあるし、制作状況のこととかをリアルに想像すると、自分がすごく頑張ったところで、彼と同じような結果になったかもしれないなと思う。その時集まった全員の化学変化で作品は出来上がる。作品を選ぶのは常に賭けだし、運も作用する。そう考えたら単純に妬んだり馬鹿にしちゃいけないなと思う。
 じゃあ、監督ではどうなんだろう。ふんだんな予算で自由に映画を撮れたらどんなに幸せだろう。なんて考えていたら、これもまた行き詰まった。だって、「君の才能を信じているから、なんでも君の思った通りに作ってくれればいい」なんてお金を渡される監督なんて日本には一人もいないもの。
 もちろん大作を任されて良質の仕事をしている監督はいるけれど、あのぐらいの予算になると俳優なども自分の自由にはならずにある程度スポンサーの意向を反映させなくちゃいけないんじゃないだろうなあなんて感じることも多いから、手放しで羨ましくは思えないし、これもやっぱり、自分が監督したからといってあれ以上に良い映画になる保証はないよなと、真面目に思う。むしろ自分だったら、こうした方がいいと進言し過ぎたあげくに面倒くさがられて降ろされる可能性もある。だったら自分でお金を集めて、小さい形でいいから自分の企画を、大好きな人たちだけを集めて本当に自由な作り方をした方が断然いいと思う。
「なんとなく羨ましい」じゃ失礼だから、もし本当にその人になったらとこんな風に真剣に想像してみると、誰になってもけっこう大変そうで、今の自分と交換するほどのメリットを感じるほど羨ましい人っていうのはいない。
 有名なことが羨ましいのかというと、もちろん有名な方が良い仕事を依頼されるチャンスは多いのだろうけれど、でも僕の中には、良い仕事をしたいだけで、有名にはなりたくないという気持ちもある。いや、こういう仕事をしている以上、誰にも知られないのは寂しいけれど、歩いてるだけで「うわあ」なんて言われるようなスターみたいな有名人にはなりたくない。「見られる」より「見る」ことが好きだから、どこでも自由にひとりで行動できる今の自分は、理想的だと思う。ちゃんと電車に乗って、足で街を歩かなくなったら、俳優も監督もダメになるという気持ちがある。皮膚感覚と庶民感覚だけはいつまでも大事にしたいから、仕事以外では目立たずに市井に溶け込んでいたい。
 CMにしたって、今までやらせてもらったものは、どれも人生の一瞬を切り取るようなドラマ仕立てで、すごく良くて、参加できて本当に幸せだったと思うから、他の人を羨ましがるのも変で、「ちぇっ」と思ったのは、たぶんCMに出たいんじゃなくて、お金をたくさんもらえそうでいいなあと思ったんだと思い、うわ、身も蓋もないなと苦笑いした。
 お金が欲しいといっても、別にお金持ちになりたいわけじゃない。お金がたくさんあれば豪華客船の旅なんてのもできて楽しいだろうけど、今までだって、普通はなかなか行けないような場所にも行って、見られないような風景にも出会った。観光ではなく、仕事で土地の人々と関わるという経験をたくさんできたのも幸せだったと思うし、それこそそれはお金では買えないものだった。じゃあなんでお金が欲しいのかというと、不安定な仕事ゆえに心配しないで済む余裕が欲しいという気持ちと、お金があったら映画を作りたいという単純な動機。なんだ、それならCMなんか出なくてもお金さえ入るなら、宝くじに当たってもいいわけじゃんと思った。あらら、そうか。そうだ。苦労しない金が入ってこないかななんて思ってるだけだ。オレ、バカだ。棚ボタのお金を手に入れて、あわよくばちやほやされたいんだと思ったら、自分のあまりの身も蓋もなさに脱力してしまった。売れてる人に謝りなさい。みんな一生懸命努力してるんだから。宝くじが当たらないからって、八つ当たりで「ちぇ」とか言ってるんじゃないよ、ホントにまったく。
 本当に深く考えてみたら、自分自身に納得できる作品を作りたくて、そのために少しお金の余裕が欲しいと欲を出しているだけのことで、実は誰のことも羨ましくなかった。
 うまくいかないことも多いけれど、だからといって交換したい人生などなかった。自分の手に入れたいものを、自分のやり方で手に入れたいのだから、多少の不安は仕方ないし、本当に何も「ちぇっ」と思う必要はなかったのだ。
 胸を張れるいくつかの良い仕事もしてきたし、そのことで褒めてもらいもしたし、どうしてもこれをやりたいと思う時には集まってくれる仲間がいて、こいつのためなら大概のことはしてやろうと想いをかけられる友人が何人かいて、自分より大切だと思える家族がいて、考えたら、自分が欲しかった全部が手に入っているわけなのだった。
 なんてことない。今の自分は、全部自分が選んだ結果のことだった。
 もう一度人生を一つずつ自由に選べと言われても、たぶん今とおんなじ自分になるんだろうなと思った。
 誰も羨む必要はない。誰も羨ましくないと思ったのだった。
 そして、後日、八つ当たりしてごめんなさいと、TV画面の芸人さんには頭を下げておいた。
 

(2018年1月)