何を見ても何かを思い出す

 
 記憶力の低下が激しいと前に書いたけれど、まったくどうでもいい脈略のない記憶は次々とよみがえったりする。
 例えば昨日、横浜スタジアムの前の交差点で信号を待っていたら、後ろから自転車を押したヤクルトさんがやってきて、その制服を見た瞬間、20年前に住んでいたマンションの隣の部屋の奥さんが、廊下でヤクルトさんの制服姿のままタバコをふかしている光景を突然に思い出した。外出するためにドアを開けた途端に目に入ってきたその光景と、なぜか少しやさぐれた、いつもと違う奥さんの意外な印象と、彼女の前に広がる廊下からの街の眺め、近くを走る電車の音、大気の感じなどがいっぺんにひとつのクオリアとして思い出された。それ以上なんのエピソードもない、20年も経って思い出すほどの強烈な記憶ではないはずなのに、いったい脳みそのどこにしまってあったのだろうと、急に思い出されたことを不思議に感じた。
 でも、街を歩いているとこんな風に、しまってある記憶が一瞬のクオリアとして引っ張り出されることがよくある。みなとみらいにあるツツジの植え込みを見ると、幼い娘を空を飛ぶみたいに下から抱えてびゅーんと植え込みの上を進ませた時のことを思い出し、渋谷の東急本店の前を通りかかれば、雨の日に娘が滑って膝をついて怪我をしてしまった時のことを思い出し、西荻窪を歩けば、浅川マキさんを聴きにアケタの店に行く途中の、尻ポケットに入ったトリスのポケット瓶の感覚をなぜか思い出したりする。ヘミングウェイの小説に『何を見ても何かを思い出す』というのがあるけれど、そんな風に、何かを見ると脳みそに収まっていたなんでもない一瞬がよみがえる。思ってもみない、脈略のない一瞬。一瞬だけれど、それは映像だけでなく、音や匂いや感情も伴って、全部いっぺんによみがえる。五感の全部を伴った1コマ。長い人生というフィルムからちぎってきたその1コマの感覚が、とても面白いなと思う。かつてサム・ショウが数十年ぶりに来日した時に、街を歩きながら、記憶を確認するように指差しながら歩いていたと聞いたけれど、それもきっと同じようなことで、指差すたびに彼の中に記憶の断片が湧き上がっていたのだろう。
 死ぬ前に見る走馬灯というのも、きっと、こういう一瞬のつなぎ合わせなのだろうと想像する。人生の重大な出来事を年表のように思い出すのではなく、どこにしまってあったのかわからない記憶の詰め合わせなんじゃないだろうか。どれが大事でどれが要らない記憶かなんて自分にもわからない。全部自分の記憶というだけ。
 死ぬ直前に思い出す、最後の最後の記憶は、いったいどんな一瞬なんだろう。
 

(2018年11月)