人間は成長するのだ

 娘がまだ2歳ぐらいの時、昼までに描き上げなければいけない絵コンテがあって、仕事部屋(といっても物置に毛が生えたような空間なのだけれど)に入ろうとしたら、娘がきらきらした瞳で足をしっかりと掴んでいる。
 うわ、しまった。今日の作業は外では出来ない。すかさず娘の目の位置までしゃがみ込んで、「あのね、お父さんは、これから急いでやらなきゃならないオシゴトがあるの。それが終わったら遊んであげるから、それまであっちのお部屋で遊んでてね」とにっこり言ってドアを閉めたが、次の瞬間にドアはばーっと開いて、娘はまたぐっと足にしがみつく。なにしろウチのドアは、トイレ以外は鍵がかからない造りなのだ。もう一度丁寧に説得を試みるが、娘はどんどん足をよじのぼり、遊んで遊んでとしがみついてくる。どうもお父さんがどこかに行ってしまいそうな気配を感じるのか、娘はいつもより強くしがみついて、その手を離そうとしない。一瞬、苛々とドアを開けて嫁さんを呼ぼうとした時、はっとなった。
 “俺は今、いったいなにを考えているんだ?”
 お前の望みは何か、もう一度考えてみろ。お前が世界で一番愛している相手が、今、お前を求めているんだぞ。お前は、まさにこの瞬間のために生きているんじゃないのか。もう数年もすれば、「お父さんクサイからあっち行って」なんて言われるようになるんだぞ。それが今、娘が、他の誰でもないお前を求めているのに、なぜお前は苛々と時間のことなど考えてるんだ? ほんのちょっとの時間すら惜しんで娘を邪険に追い払うほどの一大事なのか? 時間を守りたいという気持ちはいいが、三十分ぐらい遅れたところで、実は本当には誰も困らない。というか、極端な話、もしお前が急に今脳梗塞かなんかで倒れてしまったとしたら、そもそも間に合うどころの話ではないし、哀しいかな、それでも仕事というのはお前なしでも進んでいくものなのだ。それより、そんなことになったとしたら、お前にとってこの瞬間が、娘と遊ぶ最後の時間になるかもしれないんだぞ。
 「よし、あそぼう!」
 そう言ったとたん、娘が、これ以上はないというような笑顔で歓声をあげた。
 きゃーきゃー笑いながら思いっきり遊んでいると、さすが子供、見事に三十分で満足して、あっさりと今度はおかあさんの方に走っていった。晴れ晴れとした気持ちで向かった仕事は、当然、時間通りに間に合った。あの時、娘を嫁さんに引きはがしてもらって仕事に移っていたら、後ろ髪を引かれて集中できずに、かえって遅れていたかもしれないな、と思った。
 あ、これじゃん、と思った。若い頃によく言われてた、「切り替えが大事」ってやつ。遊びも仕事も、ちゃんと切り替えるメリハリがコツってやつ。
 そうはいっても、若い頃だったら、この切り替えはできなかったろうな、とも思った。コツって言われても、なあ。それができりゃ苦労はしないよ、と。でも、自分は最近ようやく、その成長の階段を上ろうとしているのかもしれない、と思った。

 考えてみると、若い頃より、本当に、はるかにいろんな事ができるようになっている。
 たとえば、お礼状。こういうのは先延ばしするほど億劫になるから、短くてもいいからその日じゅうに書いてしまうのがいいのよ、と親に言われても、若い時はこれが出来ない。わかってはいるけれど、それどころじゃないと、自分のやりたいことを優先する。集中したいから、と。そっちが落ち着いたら、まとめてやるからと。でも、絶対に落ち着きゃしないし、重荷になるのだ。短いのではなくて、全力でお礼状を書くことで埋め合わせをするから、なんて自分に言い訳しても、結局いつまでもできやしないで自己嫌悪する。そういう自分を反省し、ある日、逆に雑用を一気に済ませてからすっきりして仕事の波に乗ろうとする。でもダメ。一気にこなすということに夢中になって、今度は、仕事に気持ちを切り替えられない。若さとは、かほどさように残念なものなのだ。
 それが、驚いたことに、近年、自然と出来るようになってきたのだ。
 朝起きて、顔を洗うような感じで、雑用をひとつこなす。目が覚めてきた感じになったら、その日にやるべき事にとりかかる。
 嫌だとか面倒くさいという感情をコントロールして、感じないようにできるようになったのだと思う。若い頃はむしろ、そういう感情をわざわざ増幅させているようなところがあった。たぶんそれは非常に無駄なエネルギーであるのと同時に、若い頃には必要なことだったのだと今では思うけれど。
 無駄なく速く走ることより、全身全霊、全力で走ることの方が、若い頃には大事なのだ。ひとつひとつのことを順番に、すべて全力を注ぎたいのだ。そういう自分が好きなのだ。手を抜かずに自分のエネルギーをすべて注ぎ込んだ(実際は無駄なエネルギーのために集中力には思い切り欠けてるんだけどね)ことへの充足感こそが、若さという季節には、たぶん、一番重要なのだ。
 だから昔は、エッセイひとつ書くのにも、丸一晩かかった。といっても実際に書いている時間はそんなでもないわけで、数日前からああだこうだと頭の中で考えていた題材を、いよいよ書こうと決心して机に向かいはするものの、「うーむ、まだテンションがあがってこないな」なんてコーヒーを入れ直したり、うろうろ部屋を歩き回ったり、なんとなく本棚を眺めたりしているうちに、まだ読んでなかった本をぱらぱらめくり始めちゃったりして、おまけに、なにも今読まなくてもいいのに逃避気分で没入してしまったりして、そのうち外が白んできたのに気がついて、「いかーん!」と急に必死になり、無我夢中に書きまくる。振り返ってみれば、執筆時間は実質二時間程度だったりするのだ。でも、この「やりきった感」が大事だったんだと思う。
 それが、エッセイ一本に一晩かけることが不可能なほど本格的に忙しくなってきた頃、切羽詰まったあげく、意を決して朝方に切り替え、午前中の二時間勝負で書くようにしてみると、なんのことはない、書ける。クオリティも変わらない。そりゃそうだ。丸一晩かかった時と、書いてる時間は同じなんだから。かくして、少しずつ、効率ということを学んでゆく。
 歳をとり、家庭も持つようになると、もっともっと、やりたいことだけでなく、やらなければならない雑用も当然増えてくる。効率よくやる以外に方法はないのだ。そして、感動することは、なんとそれが出来るようになるということだ。気がつくと、仕事も雑用も遊びも、若い頃から比べると膨大な量な作業を、一日の中でやっている。それでいて、へとへとになったりしてるわけでもない。仕事の中空きに控え室に戻って領収書整理をするなんてことも出来る。昔の自分だったら映画への裏切りとまで思いかねない行動だが、まったく手を抜いているわけではない。完全に切り替えているだけで、瞬間の集中力はむしろ今の方がある。徹底的に不器用だと思っていた自分の性格が、実は性格ではなく若さのせいで、案外器用にもやれることに気づいてびっくりする。どこかでそれを少し悔しく思う部分もほんの少しだけあるが、それこそが青春との訣別なのである。そしてやってくるのが、自分の可能性の、驚くほどの広がりだ。必要に迫られれば、何歳になっても、人間は成長するのである。
 四十過ぎて自分が成長できるとは、思いもしなかったから、そのことに気づいた時には、正直、驚いた。ということは、おそらく五十でも六十でも、別の成長があるのだろうと思う。だから、この頃自分は、長生きすることにかなり興味を持ってきている。
 「帰り道に思うこと」でも書いたが、人生の後半に思うことが、これからなんでもできるということだったり、人間は成長するということだったりするのが、なんだか可笑しく、時々くすくす笑ってしまう。