花の名前 

 
 草花の名前を覚える能力に圧倒的に欠けている。
 桜とかイチョウとかアジサイとかチューリップとかタンポポとか、誰もが知っているようなのは、特徴がはっきりしているから流石にわかるけど、あと知ってるのはなんだろう。バラ、ツツジ、パンジー、ドクダミ……ほらもう、早くも詰まってしまった。
 桃とか栗とか、ジャスミンとかキンモクセイとか、強烈に香ったり実が成ったりするものは、その時期はわかるけど、それが過ぎると途端に見分けがつかなくなる始末。枇杷の木はかろうじて葉っぱでわかるかな。
 カミさんと散歩している時、気になった花を指差して「これ、なんの花?」と聞くと、彼女は十中八九知っていて答えてくれるので、いつもすごいなあと思う。それなのに僕なんか、何度教えてもらっても覚えられない。「これ、何の木?」と聞いて、それがミツマタの木だったことが何度あったかわからないほどで、その度に覚えられない自分が情けなくなる。カミさんは「何度も気になるということは、きっとお父さん、この木が好きなんだね」と笑ってくれるけど。
 僕の一番好きな花は、花にら。その名前をようやく覚えたのも、実は十年ほど前だ。一番好きな花のくせに名前をずっと知らなくて、ある時、カミさんを引っ張って行って、「この星型の白い花、なんていうの?」と聞いた。
 花にらは、ある日突然に目に飛びこんできて、春が来たことを気づかせてくれるから、毎年、わーっと心が浮き立つ。二番目に好きな花はすみれ。どっちも春の花、どっちも道端の花だ。時期も一緒だから、花にらに気づいたら、「ということは……」と辺りを見回すと、縁石の割れ目あたりからちょこんとすみれが顔を覗かせていたりして、嬉しくなる。「ああ、今年も春がやってきた!」と、この二つの花が、一年が経ったことを、正月よりはるかに感じさせてくれる。また一年無事に生きてた、すごいなあ、と。
 もう人生を折り返してしまったけれど、今からでももっと花を覚えたいなと思うようになった。うちから遠くないところに三ツ沢公園やフラワー緑道があるので、そこを散歩する度に、花とプレートを見比べて、少しずつ花を覚えていこうとしている。先週は、うちの近所にあるピンクの桜が『横浜緋桜』という横浜オリジナルの桜なのだと知って驚いた。今はドウダンツツジを覚えかけている。漢字で『灯台躑躅』と書くそうで、そう言われてみれば真っ直ぐに立った小さな蕾たちがそれぞれミクロの灯台みたいだなと感心する。『満点星』とも書くのだそうで、そのネーミングセンスにさらに感心した。花の名前ひとつにも、それぞれ歴史や想いや浪漫があって、限りなく豊かだ。四季のある国にいて、身の回りにこんなに奥の深い世界があるのに、長年なんとなく通り過ぎていたなんて、ずいぶん勿体無いことをしたような気がする。お茶になるものや食べられるものなどもしっかり覚えたりしたら、もっと季節を細かく実感できるようになるのだろう。というか、昔の人は、そんな風に繊細に季節とつき合っていたのだから、今の時代よりはるかに幸せだったんだろうなと思う。
 花を見るのは、人と会うのに似てると思う。「おっと、思いがけず、こんなところで」とか、「今年もまた会えてよかったですなあ」とか、実際に話しかけたりもするし、お互いの無事を喜ぶような幸せがそこにある気がする。だから、これが終われば次はあれ、そうするとそろそろ何々の盛りと、もっと花を覚えれば、もっと細かく季節を実感できるし、もっと日々の無事を喜べると思うのだ。
 季節をもっと楽しめれば、もっと幸せになれる気がする。その幸せは、その気になれば誰にでも手に入れられる幸せだ。本当の幸せとは、誰もが手に入れられるものでなくては、と思う。
 

(2018年4月)