映画と純粋芸術
僕が映画というものをこよなく愛している理由のひとつに、少し変わっているけれど、「たよりなさ」というのがあると思うのだ。
すべての芸術を合わせた総合芸術として、映画を芸術の最高峰だと言う人も多いけれど、僕はその逆で、芸術だと堂々と胸を張りきることができない「へなちょこ」な部分に、愛情を感じてしまうのだ。どんなに偉そうにポーズを取ってみても、胸を押されるとぽんと尻もちをついてしまうような、そんな愛すべきへなちょこさを、映画には感じる。
思うに、映画は、音楽や絵画のような純粋芸術ではないのだ。
たとえば、もし今、時の権力者が、すべての芸術を禁止したとしよう。必ずしもSFの話ではない。僕が生を受けてからわずか数十年の間にさえ、それに近いことは、世界に何度もあったわけだから。
さてしかし、戒厳令を敷いてどんなに徹底的に芸術を禁止したところで、たとえば、「音楽」は奪えないのだ。すべての楽器を没収して壊したところで、木を叩き、足で地面を打ち鳴らし、声を張り上げれば、音楽は誰にでもできてしまう。絶対に、誰かが奪うことはできないのだ。
同じように、「絵画」も奪うことはできない。世界中のすべての紙を燃やされたところで、地面に描けばいい。木に彫りつければいい。何千年も前に描かれた古代の壁画が、現代に当たり前に残っている。絵はどこにだって描けるのだ。
では「演劇」はどうだろう。これも、できる。舞台や照明なんて無くたって、芝居はどこの街頭でだって簡単に始められてしまう。演じる者と見る者さえいれば、充分などだ。
「小説」はどうだろうか。これは微妙だ。印刷された本は、燃やされてしまったら、もう読めない。弾圧による焚書によって永久に失われてしまった書物は数限りなくある。でも、さっき言った絵画と同じように木板に書きつけることもできるし、レイ・ブラッドベリの「華氏451」のように、誰かが語り部として丸一冊暗記してしまうことによって人から人へ受け継いでいくことも可能だという意味では、奪えないものであると言える。ただし、丸々一冊暗記したくなるほどの本なんてあまりないので、その本を好きで好きでしょうがない人にしかできない技であるのが、面白いところだ。
さて、いよいよ、おまたせの「映画」だけど。
ね。これ、全然ダメでしょ。フィルムを燃やされちゃったら、もうおしまい。たとえフィルムを持ち出せたとしても、映写機を壊されちゃったら、もう上映できないんだもの。完全にアウト。だから、映画をこの世界に無かったことにしてしまうことなんか、いとも簡単にできてしまうのだ。今の技術ならハードディスクに保存をしておけるじゃないかと言っても、しょせんテクノロジーにおんぶすることは変わりない。いずれかの機械がなければ、映画は絶対に見ることができないのだ。
政府に禁止されたら、一発でダメ。絶対に誰からも奪われることがないというものが芸術であるとしたら、映画は、そこからこぼれちゃうのだ。純粋な芸術としての力強さは、全然ない。
頭でしっかり覚えておいて後で再び書き出すということができない。言葉で説明しようにも、音も映像も演技も全部いっぺんに送り出される映画は、「こんなシーンがあって、こうこうこうでね」ときちんと説明しにくい。その瞬間を受け取った自分の印象でしか語れない。脚本を元にリメイクをしても、作る人が違えば、まったく違うものになってしまう。いや、たとえまったく同じ監督と俳優で作り直したところで、まったく違うものになってしまう。よく、機材のトラブルやもろもろの理由で、一度撮ったカットを後日撮り直すことが僕らの仕事にはよくあるが、たとえワンカットでさえリテイクしてみると、そのことがよくわかる。風景や天候、その時の気分、人間関係など、その瞬間の「現在」が、映画には決定的に写ってしまっていて、それが作品全体のテイストを作っていて、それはどうやっても二度と再現できない。その、二度と再現できない瞬間を収めたカットを何百も集めて出来あがっているのが映画なのだ。その、絶対に二度と作れないという、はかなさがいい。
はかなさという面では、終わったらきれいさっぱり何も残らない演劇もあるけれど、その演劇の潔さと反して、二度と取り戻せない瞬間を一生懸命薄っぺらいフィルムの小さな四角のフレームに閉じ込めようとしている映画の方が感傷的というか、なんともそのへんが、僕は好きだ。
芸術ではあり得るけど、芸術とは言い切れない、そのたよりなさ。純粋な芸術ではないけれど、芸術以上のものに持ち上げられる危険もない。芸術なんてものは、偉そうじゃないのが一番いいのだ。変な権威や勲章をつけられない方が、自由に人と接し、心を震わすことができる。
まあ、そもそも見せ物という形態で発展したものだから、娯楽という要素が強いし、作るのには大きなお金が必要なために出資者の意見が大きいという面からも、映画は芸術とは高らかに宣言しづらいところも、いいよね。それと、最近は技術の進歩でフィルムが要らなくなったりDVDレンタルで見るのが当たり前になってきちゃったりしたから、映画という基準自体も曖昧になってきちゃって、映画はますますたよりなさを増しちゃってる。あと、これは特に気に入ってるところだけど、映画は、とても沢山の人が関わって作られるので、監督という役割があっても全部をコントロールすることは不可能だというところも、いい。「私が作りあげました!」と言い切れない。せいぜい、「私がこの指止まれをして、みんなで作りました!」だ。さらに、僕の「いじりて論」から言えば、「私がこの指止まれをして、みんなでいじりあげました!」だ。ああ、なんともへなちょこで、可愛らしい。大勢の人がそれぞれの思いで参加するので、必ずその思いが化学変化のようなものを起こして、誰の想像とも違うものが出来上がる。でも、そのたよりなさがいい。だからこそ、僕らは、一生懸命そこになにかを詰め込みたくなるのだ。