いじりて宣言(1)   

 


 僕らのギョーカイには、「俺たち創り手はさー、どれだけ受け手の予想を裏切るかじゃん?いい意味でさー」なんてことを、得意げな顔で喋りまくる御仁がたくさんいる。
 たいしたこともやってないのにエラソーな人が多いのである。不思議なことに、皆に見てもらうために作っているはずなのに、見る人をどこかバカにしている部分があるというか、いや、あからさまに「客はバカだからさー、バカでもちゃんとわかるように作ってやらなくちゃいけないんだよ」なんて言うヤツまでいる。バカはお前だ。お前は客だったことがないのかよ? 生まれてこのかた一度も観客として映画を見たことがないのか? 一度も読者として本を読んだことがないのかよ? あー、むかむかする、ああいうヤツ。
 なんだかね、映画とかテレビって、想像力を大事にする楽しい業界のように見えて、実は、想像力のない人の割合がよそより多い気がすることが多いんだよね。
 
 どうもこれは、「創り手」っていう言葉が格好良すぎるせいなんじゃないかと思うのだ。それも創造の「創」を当て字にした「創る」という言葉に、何か自分が選ばれた人間のように特別に感じられる魔力があるんじゃないかと思う。そのせいで、実はなにもやってないくせに、全能感だけはあるという妙ちくりんな人種が歩き回る場所になってしまったんじゃないだろうか。
 でも、そもそも、「創り手」と「受け手」なんて人種があるわけはないのだ。だって、人間は、誰一人として、何かを創り出すことなんかできないのだから。
 
 だってそうでしょ? 何か身の回りで、ゼロから生み出された物がある? 目の前のコーヒーカップは土を焼いて固めたもの。その横に置いてあるスプーンやグラスだって土を丁寧に選り分けて溶かして固め直したもの。それが乗ってる机は木を切って削ったもの。そういう意味では、100階建てのでっかいビルだって、木を切ったり、土をほじくって分けて溶かして固め直したということではおんなじ。おおがかりになっただけで、砂場のお城とまったく変わりはない。
 
 つまり僕たちは、地球上にある物質をいじって、何かから何かに状態を変化させているだけ。ほんとうに最初から何かを創ったりすることはできない。ただいじって形を変えているだけなのだ。どんな素晴らしい陶芸家や家具職人が、「この微妙なラインは俺にしかだせない」なんて胸を張ったところで、で、万人がそれにうんうんと頷いたところで、何かを最初から創り出したのではなく、土や木をいじって変化させたのだということだけは、決定的な事実で変わりようがない。がっかりしても事実だ。というか、なぜがっかりするのか、わからない。ゼロから生み出していないからといって、素晴らしさは変わらないはずだ。きっと、がっかりする人は、「自分だけ違う」というのが望みなんだと思う。でも、そもそも人間は全員がみんなそれぞれ違う個性的な存在であるので、「自分だけ個性的」ってのは無理なのだ。
 もし仮に、人間が無から何かを生み出せるとしたら、それは頭の中だけだ。想像の中では何だって生み出せる。でも、それだったら、「全員が」生み出せるということでもある。誰でも想像はできるからだ。小さな子供でもおじいちゃんでも、自由に想像するということにおいては平等だからだ。だからやっぱり、「創る人」と「創らない人」という区別は不可能なんだ。
 
 だから、僕は、「創り手」という言葉をなくしてしまって、「いじり手」と呼んだらどうかと思うのだ。
「俺は今回、いじり手として、いい仕事させてもらったと思ってるよ」
「いじり手のプライドににかけてここはゆずれねえな!」
「いじって、いじって、いじって……ついに、いじりあげたと思っても、まだその先があるんだよな。ふっ」
 うーん、いい。このへなちょこ感が可愛らしいと思う。どんなにいばって言ったところで偉そうな感じが出せないので、グー。
「うえーん、違うよ!俺がやってることは、もっとすんごくて、エラくて、普通の人にはできない特別なことなんだよ!」なんて地団駄を踏んでいる連中の姿が目に浮かぶ。ウヒヒ。でも仕方ない。もう一度言っておこう。僕たちは、最初から物を創り出すことなんか、できないんだ。
 
 大事なことは、「創り出す」ってことじゃなく、「いじるのは楽しい」ってことだと思う。僕たちは、その原点を決して忘れてはならないと思うのだ。
 砂場で砂をいじってたら、楽しくて、何かの形にしてみたくなった。城をひとついじりあげたら、もうえらく楽しかった。できあがったのをしばらく眺めて、満足のため息をついた。次の日また来たら、もう城の形はなかった。そしたら、またひとつ作ってみたくなった。(あー、ここでもう、説明がぐちゃぐちゃにならないために「作る」って言葉を使わせてもらうね。ただし「無から創り出す」ということではなく、あくまでも「加工する」という意味でね)すごく楽しかったから今度は友達を誘って作ってみた。山の両側からトンネルを掘って、貫通して指が触れた瞬間は思わず声が出るほど嬉しかった。わいわいやってたら、「おー」なんて喜んで見てた人たちもやりたくなってきたらしく、そこらじゅうで城作りが流行ってきた。友達をいっぱい連れてきて、「今まで見たこともないようなすげえでっけえ砂の城作ろうぜ!」とか、「女の子だけで作ろう!」とか、「誰も城だとは思わないかもしれないけれど、これが俺にとっての城なんだってヤツを今日は俺一人で作るんだ!」とか言うヤツもいて、みんなみんな楽しそうで、ひとつひとつ全部違うお城で、他のを見て回るのも楽しくて……。こういうのが原点だと思うのだ。映画を作るのも机を作るのもビルを作るのも、すべてこういうことだと思うのだ。

 ところがある日、知らない人が沢山の人を連れてやってきて、「今からここに作るから、入らないで」なんて線を引っ張って、図面を見ながらあっという間に大きなお城を作りあげ、壊れないようにスプレーで固めあげて、お城より目立つきんきらした看板をその前に置いたり、見てた人たちに、「1番だと思う人」なんて手を挙げさせて、賞のプレートもくっつけた。そんなことから、少しずつ「つまらないこと」が始まったんじゃないかと思う。
 永久に保存したり、作った人の名を刻むために、お城を作り始めたんじゃないはずなのに、いじることが楽しかったのに、遊びだったのに、なんだかいつの間にか、「それって遊びじゃん」なんて、遊ぶこと自体がバカにされたりしている。それが今の世界のような気がする。
 
 だから今こそ、「いじり手」を宣言するのだ。僕たちはみんな平等に「いじり手」なのだ。誰かと比較して優越感に浸るためではなく、ただの「いじり手」として、この世界をいじることを、純粋に、思う存分楽しむのだ。