ワリカン

 
 若い頃はワリカンが苦手だった。
 計算するのが面倒臭いというのがいちばんの理由だったけれど、金なんて天下の回りものなんだから、どっちかが払えばいいだけと思ってた。
 自分の方が多く金を持ってると思えばメシ代は奢ったし、代わりに食後のコーヒーを奢ってくれれば一回ずつでチャラだと思ってた。金額の問題じゃなくて、缶ジュース1本でも一回ずつならチャラで、結果としてどちらが払う金額がいつも多くなっていたとしても、奢り奢られで平等なのだから、どちらも気にする必要がないと思ってた。そういうルールにしないと、経済格差のある友人同士は遊びにくくなってしまうじゃないかと思っていた。だから、気持ち良く遊ぶには、ワリカンではなく、奢り奢られの回数でチャラにするのが一番健康でいい方法だと思っていた。どっちかがお金が無いからなんて理由で遊べないのはつまらない、一緒に過ごす時間の方が大事だったから、そのためにお金を多く払うことなど惜しいと思わなかった。人によって使えるお金の範囲が違うのは当たり前だし、僕には養う家族もいなかったから、それですっからかんになったところで、楽しければ良かった。
 奢るのも奢られるのも好きだった。働き始めた頃は振込じゃなくて手渡しでギャラを貰ってたので、給料日は必ず誰かを呼び出して、なにかしら奢るのが習慣だった。思いがけなくギャラが多かった時などは、今まで食べたことのない高いものを食べに繰り出したし、雀の涙ほどしか入らなかった月も、アイス一個でいいから誰かに奢った。友達もまた、よく奢ってくれた。金のない時期はそれでずいぶん助かった。ある時と無い時の差が大きい生活だったから、奢り奢られは本当に楽しかった。
 映画の世界は、ヒエラルキーがはっきりした世界だったので、監督が助監督たちの分を払うのが当たり前だった。師匠の岡本喜八監督と食事をする時も、必ず監督が払ってくださった。いつもそうしていたら、トータルすると監督の方がギャラが安くなってしまうんじゃないかと心配もしたが、監督は「食わねど高楊枝」なのだと思った。だから、その分をいつかキチンと返そうと心に誓いながら「ごちそうさまです!」と大声でお礼を言った。そして、監督の作品が少しでも良くなるように全力で頑張ったし、監督が喜んでくれそうな誕生日プレゼントを一生懸命探したりした。「自分も助監督時代は監督にそうしてもらっていたから、順番なんだ」と喜八監督から聞いていたように、僕も監督になった時、ペイ・フォワードで、やはり同じようにした。と言っても、働き盛りの助監督を連れて焼肉なんかに行ったりすると目が飛び出るような枚数が消えていくので、とても喜八監督のようにカッコ良く毎回払うことなんてできなかったけど。でも、映画監督がワリカンというのはダサいような気がいまだにしてしまうのは、師匠への憧れのせいだと思う。
 時は流れて、今は、すっかりワリカンに慣れた自分がいる。
 家族ができて、自分のお小遣いをなるべく減らしてできるだけ家族のお金に充てたいというケチケチな気持ち……というわけでは決してない。いや、多少あるのかもしれないけれど、だからまたそれは別に書こうと思うけれど、それより、今の若い人たちのルールに合わせる方が心地よくなったからだと思う。
 僕らの世代に比べて今の若い人たちはろくに飲みも食いもしないので、奢ったところで実はそんなに怖くもないのだが、多く払おうとしても大概「いや、キチンと割りましょう!」なんて言ってスマホで10円単位まで計算して、お金を徴収して、ちゃんとお釣りを平等に分けてくれるので、これはこれで健康的だなあと思うのだ。本当は、人によって千円の価値は違うはずで、気がつかないうちに使ってしまう程度の金額だと思う人もいれば、えいっと思い切った気持ちで使う人もいると思うので、ワリカンていうのは決して平等じゃないと僕は今でもどこか思っているのだけれど、当たり前のルールとして当たり前にワリカンを払う彼らは、健全で清々しいと思うのだ。それに、こんな年長者に対してもまったく同じようにしてくれると、仲間として平等に扱ってもらってるという気持ちも感じられる。
 ワリカンにすると、持ってない人の経済レベルに合わせるから、自然と安い店に行くようになるのだけれど、それもまた良しと思う。一緒にいる時間が楽しければ場所はどこでもいいという考えも、これまた正しいと思う。
 バイトの時給がいくらだとか聞いてしまうと、年長者としては同じ金額を払わせることに後ろめたい気持ちを感じたりするのだけれど、彼らはまったくそんなことを気にしている風がない。ただ「同じ金額を払う」というきっぱりとしたルールがあるだけで、そこには、見栄も気後れも恨みもない。明快に対等で平等なのだ。ワリカンの良さはそこだと思う。「今日はお金がないから帰る」と言う子がいると「わかったー」と応える。えええーっと最初は思ったが、これも慣れてしまうときっぱりとしてて清々しいなと思う。「ああ、今日は俺が払うからいいよ」と思わず言いたくなってしまうのも、極力抑えるようにしている。その子とは、また別の形で喋ることもあるだろうし、どうしても話したい時は、個人的に誘えばいいし、その時は奢ることもあるだろうと思って。でもたいがい僕と遊んでくれる若い人たちは、二人の時でも「ワリましょう!」と気持ち良く言ってくれる。友達にしてくれてるなあと嬉しくなる。
 おかげで、昔思っていたような味気ないものだとは、ワリカンのことを思わなくなった。本当に、人の感じ方考え方っていうのはずいぶん変わるものだなあと思う。でもそれが楽しい。いろんな立場からの感じ方考え方を、死ぬまでにできるだけたくさん体験してみたい。
 

(2018年7月)