僕の見ている青は

 
 色覚検査ってあるでしょ。円の中に色の粒がぎっしり詰まってて、その粒で描いてある数字や図形を「67」とか「ヨット」とか答えるやつ。小学校の何年だったか、もう記憶がおぼろげなんだけど、なんだか楽しい検査だなと思って答えてたら、何も書いてない円が出てきて、これはひっかけだなと「なにも書いてない」って元気よく答えたら、隣の子が「剛ちゃん?」と不思議そうに見てて、「ん?」ってなった。
 まあ、それで自分が色弱だってことがわかったわけなんだけど、今考えれば、劣勢遺伝なんて言われてがっかりしてもよさそうだったのに、逆に、不思議で面白いと思ってしまった自分がいた。この能天気ともいえる受け取り方のおかげで、その後も人生の大事件を面白い方向に舵きりしたことが何回かあったのだけれど、思えばこれがその最初だったのかもしれない。同じものを見ているのに、同じように見えていないという不思議さ。同じ色を見ていても、同じ色として感じていないかもしれない不思議。とにかくそれがすごく面白かった。
 僕の場合、ピンクと薄緑のあたりが弱いようで、ピンク単体だとピンクだとわかるし、緑もわかるのに、それが隣り合わせになると途端にどっちがどっちかわからなくなったりする。たとえば学校にある色付きチョーク、ああいうのが苦手。黒板に外から陽が差し込んでいる時に「赤のチョークで答えを書いて」なんて言われると、どっちが赤か緑か判断できなかったりする。すごく面白いのは、(もしかしたらこれは僕だけの感覚かもしれないんだけれど、)ピンクを見ている時に、「でもこれ、もしかして緑なんじゃないの?」と疑って見つめていると、だんだんそんな風に見えてくること。テレビの色調整で少しずつ色を変えたりできるでしょ。あれを自分の脳内でできる感じ。化学変化しているわけでもないのに、自分の目の前で、見ているものが変化していくというのは、めちゃくちゃ面白かった。面白くて、何度も自分で試してみて、その不思議さに魅了された。
 そして、もしかしたら自分の見ている青でさえも、他の人は違う印象に見えているのかもしれないと思って、興奮した。だって、自分の目を通して見られるのは自分だけなんだし、人がどんな風に見えているのかは想像するしかない。もしかしたら、自分が感じている青の印象は、他の人は緑に感じている印象なのかもしれない。「情熱の赤」とか「抜けるような青空」なんて言うけれど、色そのものの見え方や印象は、実はみんな、ひとりひとり違うんじゃないかと、そんな風に空想が広がっていった。世界って、ひとつの決まった形じゃなくて、人によってまったく違って見えていて、生きている人数分の世界があるに違いないと思って、そのことがきっと自分を自由にしたんだと思う。
 あと、色弱が遺伝によるもので、僕の大好きなおじいちゃんもそうだったと知ったのも、もうひとつ嬉しいことだった。それを知った時はもうおじいちゃんは亡くなっていたけれど、だからこそ、おじいちゃんと一緒ということが、二人だけの秘密を共有しているという感じがして、それも前向きに受け入れられた理由のひとつだったんだと思う。
 そういえば、ゴッホが色弱だったということを知った時も、ゴッホの絵が大好きだったから、かなり嬉しかった。それに、色弱でない人より僕の方がきっとゴッホが描いたとおりの見え方をしているのだろうということも、すごく面白かった。
 錯視とか色立体視とか共感覚とか、脳科学に興味を持つようになったのも、きっかけは、この色弱という特性のせいだったんだと思うけれど、実は、僕が映画にのめり込んでいったのも、データ化できない「感じ方」というものに、より興味を持ったからじゃないかと思う。
 一本の映画も、見る人によってそれぞれ違う映画になる。感覚が違えば当然見えているものも違っているだろうし、同じ瞬間の同じスクリーンでも、喋っている登場人物のおでこを見ている人もいれば、聞いている方のを注目している人もいれば、画面の端っこの花に注目している人もいるはずで、ということは、それぞれまったく違う映画を見ているはずなのだ。だから百人いれば百本の映画になる。作る方としては、こういう風に感じてくれたら嬉しいという願いはもちろんあるけれど、全員に同じように感じてもらうことなど不可能で、だから、せめていろんなことを感じてもらえるように、そのきっかけになるようなものを一生懸命詰め込んで作るということ以外にできることはないし、だからこそやりがいもあると僕は思っている。そして、その一本の映画を通して「あそこが良かった」とか「こう感じた」と語り合い、その差や共通点を通じてお互いを知り合っていくきっかけになってくれれば、それでいいのだと思う。
 映画って映像がメインなのに、色覚異常って大丈夫なんですかと聞かれることもあるけれど、実は、映画業界には驚くほどたくさん色覚異常の人がいる。『ドライヴ』のニコラス・W・レフン監督がそうなのはそこそこ有名だけど、アンケートをとったら、もっともっとたくさんいるに違いない。いつぞや、映画の集まりの席でふと「俺、色弱なんだよね」と言ったら、「俺も」「俺も」と、かなりの数の人が言い始めて、みんなで笑ってしまったことがあったけど、その割合は、意外と一般社会以上じゃないかなと思ったりする。というのは、やっぱり、人の感じ方に興味がある人が集まってくる世界だからだと思う。
 今ネットで調べたら、男子は20人に1人の割合で色覚異常なんだってね。だから優勢や劣勢や異常という用語の言い換えを検討しているらしい。優勢だろうが劣勢だろうが、とにかく自分にはいい作用をしたと思うので、そのあたりの呼び方に関しては僕はどっちでもいいけれど、まあ、異常というよりは個性というレベルの割合であることは確かではあるね。 それにしても、伴性遺伝だったら、人類の歴史の中ですこしずつ減っていっても良さそうなものだけど、これだけの割合で存在するってことは、人類にとって何か必要な理由があるのかな。人間は、昆虫や犬ともまったく違うように世界が見えているわけだけれども、同じ人間のグループの中でも、見え方に差がある人がいた方が得な何かが、きっとあるんだろうね。そういう理由を、日向ぼっこなんかしながらつらつら考えたりするのも、とても楽しいことだ。
 色覚検査の話に戻るけど、あの検査をもう一回受けてみたいなあと、ずっと長い間思っていたんだけど、これもネットで調べてみたら、なんのことなくいっぱい紹介されてた。面白いなと思ったのは、「色覚異常だと見えない絵」だけじゃなくて、「色覚異常じゃないと見えない絵」っていうのもあるんだね。そのうちのひとつが僕には見えて、また「わお」となった。「たいがいの人にはこれが見えないのか。おまけに、これ全部に何かが見える人もいるのか。いったいどんな感じに見えるんだろう?」と、興味は尽きなかった。人の数だけ違う世界がある。まったく面白い。
 

(2018年6月)