僕は保守的になった

 前は街で暴走族なんぞ見かけても、「なかなか元気があってよろしい。ただ、なにか言いたいことがあるなら、早くに他の方法を見つけようね」ぐらいに思ってた僕だったが、子供が生まれてからというものは、ちょっと荒い運転をするバイクが近くを通っただけで、かっとなり、
「走りたいならどっか人のいないとこに行けよ! お前が勝手に死ぬのはかまわないが、俺の娘にもしものことがあったら、お前を絶対に殺してやる」とまで思う。
 子育て中の獣に近づくと危ないというのがとてもよく分かる。もうこれは本能的なもので、自分の内側の獣の部分が発動してしまっているのだと思う。自分がすっかり保守的になったなあ、と思うのと同時に、保守的というのは決して穏便ではなく、かなり攻撃的になりやすくなるものだというのがよく分かった。
 知り合いの子が暴走族だっていうならきっと話は違うのだろうけど、知らない者に対しては簡単に気持ちを切り捨てることができるというか、興味が低下しているのだと思う。でも、そういう心の門扉の前にわざわざ鉄条網を張っているようにはなりたくないなあ、と思う。知り合ってもいない人を最初から嫌いでいたくないのだ。愛するものを守ろうとするエネルギーが大きいあまり、他に目を向ける余裕がなくなっている状態が保守的というんだろうけど、想像力がないために無神経な差別をしてしまいたくない。自分にも愛する人がいるように、すれちがう人にだってかけがえのない人がいるはずだということを忘れたくない。いや、だから、そういうことを想像していないだろう人に対して、お前の想像力の無さのせいで俺の愛する人を傷つけられてたまるか、と、かっとするわけでもあるんだろうけど。
 あと、保守的な自分を感じるのは、宵越しの銭を必ず残すようになったことかな。
「金は天下の回りものだから、回していかないといけないんだ。出さないと入ってこないから、時にはぱーっと使っちゃわないとね」なんて、全然言わない(笑)。ある時はあるだけ使って、無きゃ無いで気にしないって性格だった自分が、今は絶対、もしもの時のお金を確保している。いざという時はなんとかなるよって気持ちは今でも無くしてないけれど、豪快な行動は、ホントに、驚くほどしなくなった。 
 昔、僕はすぐに人のことを家族だと思うところがあった。家族は助けるだろう、と、自分を投げ捨てても人を助けたくなることがよくあった。お金に困っている人がいれば、貸すんじゃなくてあげちゃうようなところもあった。そういう自分も好きだった。映画という現場が好きな理由のひとつも、一本の映画を作り上げる仲間はみんな家族だと思えることが幸せだったからだ。
 だから子どもが生まれる前、もし自分の子どもだけ可愛いようになってしまったらどうしようと心の底で心配していたら、蓋を開けてびっくり、自分の子どころか、どこの子を見ても可愛くて可愛くて感動するようになってしまった。その気持ちは今も続いている。にもかかわらず、保守的な気持ちというのは、自分の中にはっきりと、ある。全部は選べないから、守る順位をつけなくちゃいけないのだ。独り身の時は、目の前の人を最優先すればよかった。でも、今は常に心の中に嫁さんと娘がいるのだ。
 たまに嫁さんと笑い話で話すのは、もし地震でどっちかが家の下敷きになったまま火の手が迫ってきた時、昔ならぎりぎりまでなんとかしただろうし、いざとなった時は「じゃ、もう一緒に死んじゃうか」と思ったりしただろうけど、今は絶対「もういいから、のんちゃんを連れて逃げて」と言うだろうし、言われた方は「うん」と頷いて行くだろうね、という話。絶大な信頼がお互いにはあるけど、愛は我が子に向いてるよね、やっぱり、と言って笑う。
 だけど、ここに微妙なジレンマがある。離れた場所で地震に遭った場合、夫婦だけの頃なら、真っ先には飛び帰らずに、まずは目の前にいる人たちを助けることに専念するだろうし、自分がそうすることを嫁はわかってくれてるだろうとどこかで思っていられるが、今、その場面に直面したら、自分はどうするだろうかということだ。目の前で生命の危機に遭っている人を見て、自分は命がけで助けに行けるだろうか、悩ましい。誰か他の人が助けてくれればいいが、と躊躇するだろう。躊躇するだけだろうか。ごめんなさい、と、家への道を急がないだろうか。わからない。どの行動をしても後で悔やむかもしれない複雑なジレンマだ。
 こんなことを悩むのも、愛する者がいる故だ。だからこそ保守にもなる。
 暴走族にかっとして、宵越しの金は絶対に残す。
 それでも、慎重に、なおかつ前向きに、守っていけるようになりたいものだ。