エンドロール

 
 いい映画を観た後のエンドロールは、至福の時間だと思う。
 現実の光の中に出て行く前に、観た内容をもう一度噛みしめながら暗闇の中で余韻に浸ることができる、とても貴重な時間だと思うのだけれど、エンドロールを見る派と見ない派なんて話題があること自体が、どうもよくわからない。エンドロールを見ないでさっさと帰って行く人は、映画を鑑賞するというよりは、登場人物の誰が勝ったか負けたかをただ確認して帰っていくようなものなんじゃないかと思ってしまう。よっぽどその映画がつまらなかった、という場合もあるかもしれないけれど。
 ディズニーやマーベル映画は、エンドロールまでいろんなエフェクトやおまけカットが散りばめられていて、最後まで飽きさせないように作っているけれど、ごくシンプルなものであっても、僕はエンドロールを眺めるのが大好きだ。
 最後の最後まで観てもらうために繊細な注意を払って作ってるのだから、最後まで観てあげるのが観客の誠意だとかいうお固いことじゃなく、僕は単純に、エンドロールを眺めていると、ロマンチックな気分にいつも浸れるのだ。
 だって、どんな映画も、1本出来上がるまでには本当に沢山の人が関わっているんだって感じて、ぐっとくるのだ。日本映画だとスタッフに知り合いの名前を発見することも多く、「ああ、あいつ、これやってたのか。元気かな」と、その人を思い出して嬉しくなることもよくあるけれど、外国映画でも同じように、その映画に関わった、会ったこともない沢山の人たちのことを、僕は勝手に思い浮かべたりする。
 ハリウッド映画なんかだと、千人は軽く超える名前がクレジットされる。撮影や照明のメインスタッフから始まって、移動車を押した人やスタンドインやドライバーの名前まで、仕上げならCGや効果音に関わった人ひとりひとり残らずクレジットされている。映画のロケ隊というものを初めて迎えた土地で、スタッフに頼まれてエキストラに出演した村人の名前だって、そこにお弁当を毎日運んだ人の名前まで、きっとみんなクレジットされている。映画を作るには、いつも映画に関わっているプロの人たちだけでは、決して出来上がらない。映画とは別の人生と職業を持った人たちの協力無しには、映画は決して出来上がらないのだ。そのそれぞれの人たちは、どんな思いでこのクレジットを観てるかなと、いつも思うのだ。自分の名前が初めてスクリーンに映った時の嬉しさを思い出す。自分の関わった映画が良い映画になった時の誇らしい気持ち、そこに刻まれている自分の名前を見た時の気持ち。それはどんなパートでも同じ気持ちなんじゃないかと思う。
 近年は、ハリウッド映画に日本人の名前を多く見かけるようになったなと思う。苗字だけ日本名の人は二世とか日本人と結婚した人かなと想像するし、氏名とも日本名の人はUCLAやニューヨーク大学で映画を学んだり、夢を追って海を渡った人なのかなと、会ったこともない人のストーリーを思い浮かべてしまう。なんにしろ、そこには人生のストーリーがあるわけで、それがエンドロールにはぎっしり詰まっている。巻き上がっていく沢山の名前を眺めながら、この人たちは、自分の関わったこの映画をどこで観たのかな、完成試写で見た人もいれば、公開初日に劇場で恋人と観たり、子供を連れて家族全員で観た人もいるだろうなと、想像はどんどん飛んでいく。その子は、暗闇の中でスクリーンに父親の名前を見つけて、自分のことのように誇りに思っただろうか。
 もちろん、映画だけじゃなくて、どんなものにも必ず沢山の人が関わっているのだけれど、映画は、手に掴めない光と影だけの儚いものだから、特にロマンチックに感じてしまうのかもしれない。その儚いものに一生懸命になった無数の人たちに、映画館の暗闇の中で、僕はいつも思いを馳せてしまう。
 

(2018年5月)