演技のマルチタスク

 
 テレビがついていると気が散って電話できないのは男子に多いらしい。かくいう僕もその一人で、テレビがついてると人との話に集中できないし、電話はできれば歩きながらでもしたくない。
 一旦集中してしまえば他のものは気にならなくなってしまう(聞こえなくなってしまう)傾向もありつつ、基本的には男子はマルチタスクに向いてないようだ。でも車の運転などは手と足と目で同時に様々な注意を連携させながらするわけだし、そんな複雑なことをしながら、おまけに音楽やラジオをかけながらなおかつお喋りすることまでできるというのは十分すごいマルチタスクであると思うし、なぜかこれは男子の方が得意だったりするから不思議だ。
 演技にもそういう傾向があるように思う。難しい長台詞を喋りながらマークされた立ち位置にピタリと止まったり銃口をカメラの目の前10cmにピタリと出すみたいなことは男子の方が圧倒的に得意だと思うけれど、決め事があまりない中で自由に柔軟に対応していくのはやはり女優の方が長けているように思う。アドリブにしても、男優は比較的仕掛けるのは得意だけれど、リアクションの豊かさは女優にかなわないというような。
 すべての決め事を完璧に処理するのを男は好み、なんにでも柔軟に対応できるのが女なのかなという気がする。そういう意味では、男優は準備してきたことと違う事態が現場で起こるのを苦手とすると思うのだが、でも僕はこれが面白くて好きだ。
 急なセリフの変更や小道具やアクションの追加は、心地よい緊張を生み出す。初めて起こった出来事のように見せるのが演技の一番大事なことだと思うから、新鮮な気持ちでやるためには新しい事態が起こった方がいい。もっと面白いのは、本番中に起こる不測の事態だ。誰かが本番中にうっかりペンを落としたりするだけで、一瞬でいろんなことが変わる。ペンを拾って渡しながらセリフを喋るべきか、まったく何も起こっていないかのように振る舞うか、猛烈なスピードでいろんな可能性を考えながら演技を続ける時の頭の状態は、とても楽しいものだ。カットがかかった瞬間に顔を見合わせて、「もー、勘弁してよー」とか言いながら、みんな嬉しそうだ。この一瞬の緊張と興奮が演技の魅力の一つだとつくづく思う。
 新鮮な演技のために、覚えたセリフを一旦全部忘れて頭を真っ白にするように、本番直前まで関係ない世間話をしたりすることもよくある。ずいぶん余裕があるなあと思ってる人もいるかもしれないが、逆に新鮮さのために勇気を持って変な余裕をなくそうとしているという面もある。それでも一度きちんと覚えておきさえすれば、ちゃんとその場に応じたセリフは浮かんでくるものだし、実はところどころ忘れちゃって「えーと、次はなんだっけ」という状態にでもなった時の方が、本当に考えながら喋っているように見えて良かったりもする。だから、セリフを忘れてしまわないかいつも不安だと言う俳優さんには、一度叩き込んだセリフはそうそう忘れるもんじゃないから勇気を持って忘れなさいと言ってあげることもある。
 セリフをまったく覚えていないのに舞台が始まってしまうという悪夢は、役者なら誰でも見たことがあるはずだけれど、一旦始まってしまえば途中で止められない舞台の方が、不測の事態が起こることへの恐怖も多ければ、それをマルチタスクで処理していく時の脳の快感も多い。
 頭の中が真っ白になってどうやっても次のセリフが思い出せずに舞台の上で延々意味のない笑いを続けたとか、大事な小道具を持ち忘れて舞台に出てしまってアドリブを言いながら一旦舞台袖に戻ったなどというエピソードなどを、やらかした本人から実際に聞くと、おお、と怖くなるんだけど、でも数少ない自分の舞台経験の中にも近いことはあって、たとえば相手の役者さんが1ページぐらいセリフ飛ばしちゃった時に、その間に何か自分の大事なセリフはなかったか、スルーしちゃっていいのか、どこかのセリフにくっつけてフォローするべきなのかしらみたいなことを考えながら演技を続けた時などは、やはりとても楽しかった。ちゃんと感情を乗せてセリフを言い続けながら、同時に脳みそのメモリをフルに使ってその問題処理を考えている状態っていうのは、本当になんともいえない面白さがある。同時に二人の自分が存在するような、まず普通の生活では「ありえない」状態の面白さ。幽体離脱なんてのもちょっとこういう感じなのかなと思ったりもする。まず間違いなく観客には役者にそんなことが起こっているなんて気がつきはしないわけで、それをどこかで面白がっている自分までいたりして、アドレナリンやらエンドルフィンやらもしかしたら間違った変な脳内物質までがありったけ出ちゃってる、そのパニックぎりぎりの状態が、ある種快感なのだ。役者がやめられないのはこの快感のためなのかもしれないね。
 

(2018年10月)