帰り道に思うこと

 富士の裾野近くで遊んだ帰り道、木洩れ日の美しい林の間をドライブしながら、ふと嫁さんと、このあたりの土地に住んでみるのもありだよねえ、という話になった。
 工作好きの俺らとしちゃあ、自然に囲まれた生活もしてみたいなんて、時々思ったりしてたもんね。別荘地から離れちゃえばそんなに土地は高くないだろうしさ、原稿の仕事を増やしたり、やりくりをすれば、生活していくだけの収入はなんとか稼げるだろうし、なんなら思い切ってこっちで新しい仕事探せば、なにかしらやれることもあるんじゃないだろうか。とりあえず娘が小学校に上がるまでの二年ぐらいだけ住んじゃうって方法もありだよね。小学校の途中で引っ越させちゃうのは可哀想だしさ。都会の暮らしはいつでもさせてあげられるけど、田舎暮らしを経験させるなら小さい頃の方がいいかもね。
 そんな話を愉しくしながら、だからといって妙にはしゃぐ感じでもなく、具体的なシミュレーションをいくつか始めている自分たちに気づき、“そうだよなあ、その気になれば、今から本当にどんな生き方もできるんだよなあ”と、感慨を感じた。
 若い頃だったらさ、と嫁が言う。田舎で暮らすなんてこと思いついただけで、そのアイデアに身体がかーっと熱くなっちゃってさ、ああもしたい、こうもしたいなんて考えるうち、どうせだったら外国の田舎ですべてを一から始めるのはどうだとかさ、まだ何もしてないのに、いや、やっぱり俺は都会に生きる人間なんじゃないかなんて迷い始めたりしてさ、結局、部屋ん中でひとりエネルギーをぶしゅーって噴きだしたあげく、軽いウツに入っちゃったりするんだよね、と。
 そう。やりたいことも、やれることも多すぎて、落ち着いてひとつに選ぶことが出来ずに、その膨大なエネルギーを無駄に放出させるのが若さというものなのだろう。それが、ある程度歳をとってくると、それなりにやってきた経験も行った場所もあるから、これはもうこなしたな、とか、これはやってないけれどたぶんあれと似たことだろうからいいや、とか、「もうやらなくてもいいこと」が増えてくるおかげで、逆に、若い頃より思い切った行動を選ぶことができるようになるのだと思う。おまけに若い頃よりエネルギーが少なくなってるから、オーバーヒートもせず、「どうだあっ」なんて無駄に自慢したりもせず、着々と効率よく実行したりして。
 面白いなあ、と思う。歳をとってからの方が、人生の残り時間は確実に少なくなっているのに、若い頃より、「これからなんでもできるなあ」と思うことが多いのだ。
 いや、もちろん、これから外科医になりたいと思っても、今から受験勉強して大学入ってなんてこと考えれば、まあまず無理だろうなあとは思う。でも、そのかわり、もし人の命を助けるために自分を役立てたいというのがテーマなら、外科医でなくても似た方法は見つけ出せるだろうというような、そんな思い。やれないことの数を数えて溜息をつくというより、逆にやり方が絞られてきたことで気が楽になったような感じがするのだ。
 とっさに自分の歳が答えられないぐらい、普段は年齢のことを意識しないで生きている自分だが、四十六歳になったある日、ぼんやりと、「あと何年生きるか何十年生きるかはわからないけど、とにかく、さすがにもう確実に人生を折り返したよな」と思った時、不思議にほっとしたことを覚えている。
 残りの人生でやれることとやれないことの範囲も見えてきて、そのうえで、これから自分はどんな生き方もできる、どんな人生も心置きなく選べるのだという、晴れ晴れとした気分があった。また、それを実行に移せるノウハウも自分のなかにはあるのだという確信。

 人生を確実に折り返して帰り道に思うことが、「これからなんでもできる」ということだというのは、なんだかとても面白く、感動してしまう。