自分の時間

 
 僕が普段演じるのはたいがい主役ではないので、作品に出ずっぱりということはあまりないのだが、その割には不思議と、クランクインとクランクアップの両方に立ち会うことが多い。
 全部で10シーンしか出てないのにまるまる10日間現場に行くようなこともあって、なんだか、出番の量の割には主役より現場に行く日数が多いことがけっこうあったりする。ある作品の時など、1シーンのために3回も茨城に行くハメになってびっくりしたこともある。まあそれは極端なケースだけど。
 僕はとにかく現場が好きだし、キャストだけでなくスタッフとも知り合いが多いから、行く日数が多いほどいろんな人と積もる話が出来て楽しいし、「利重さんが現場にいるとほっとしますよー」なんて現場のお守りのように言われたりするとすごく嬉しいんだけど、主役の出番が終わってからもう1週間も経っているクランクアップの瞬間に自分がいるのは、ちょっと不思議な気分だったりする。
 こういうことがあるのは、まあ簡単に言っちゃえば、予定が忙しい人のスケジュールに合わせて組んであることと、僕があまりかけもちをしないということの関係だろう。時間に余裕のある人は忙しい人に合わせざるをえず、結果、余裕のある人は効率の悪いスケジュールになる。それと、近年は、ただでさえ忙しい人を主役に据えることがさらに多くなったからだ。監督と同じく皆を迎え入れて送り出す座長としての役目を主役が追うことは、昔に比べて少なくなったなあと思う。
 忙しい人は、出番をぎゅっとまとめられてしまうため、1日ずっと休みなしに働き続けるから当然大変なわけだが、その効率を作り出すために、僕らは日数や中あきがやたら多くなり、まとめれば2日で終わるものが1週間かかったりして、結果としては同じぐらいに休みがなかったりする。
 いや、そのことの愚痴を言いたいんじゃなくて。めちゃくちゃに忙しい人っていうのは、知らず知らずのうちに他の人の時間まで使っているんだよなあ、なんてことをふと思ったりするのだ。
 自分は、どんなに忙しくなっても、人の時間を吸いあげるまでにはなりたくないなと思う。自分の仕事が重要なものだという自負がいかにあったとしても、そこまでにはなりたくないと思うのだ。そして、「知らず知らず」ではなく、自分が忙しい時は、必ずその裏で、誰かの人生の時間を自分につきあわさせているのだという自覚を持っていたいと思う。
 
 時は金なりと言うけれど、確かに我々は、大なり小なり、時間を金で買っている。単純に言えば電車やタクシーに乗ることだってそうだ。それにたずさわる人の時間を使って自分の行動の効率を上げようとする。伝言を受けておいてもらう、調べ物を頼む、モーニングコールを頼む、なんて全部そうだ。自分がしたくない作業を人の時間に肩代わりしてもらうということだ。
 でも、困った時はお互い様とか、夫婦で分担して、とかいうのならいいけれど、時間を「買う」って発想をし始めると、ろくなことにならないと思う。それに、自分がやりたくない作業の時間を金で買って削ったところで、「もっと」という欲や不満があるかぎり、楽しい時間ばかりにはならないと思うのだ。だから、つまらないと思う時間を削ろうとするより、楽しく感じる時間を増やす方がいいと思う。つまりは、気持ちの問題。
 沢山の人々の膨大な時間のおかげで、歩けば何ヶ月もかかってしまう距離を数時間で行けてしまうような時代にはなったけど、でも、だから歩いていくことがくだらないということにはならない。風を感じ、季節の景色を愛でながら歩くことは、到着するという目的に劣らず、楽しいことだと思うのだ。なのに、時間のことだけを考えると、到着だけが目的になってしまい、それまでの時間は全部「移動」という味気ない時間ということになってしまうような気がして、つまらない。つまらない時間が増えてしまうなら、「便利」なんてまったくの本末転倒だと思うのだ。
 
 それに、そもそも「自分の時間」ってなんなんだよ、とも思う。
 くだらないことにつきあわされると、「俺の時間を返してくれよ」なんて、よく自分も言っていたけれど、数年前に、ふと、「自分の時間」っていったいなんだよ? と疑問を持った。
 楽しい時間だけが「俺の時間」なのか? 人のために何かする時間は「俺の時間」じゃないのか? じゃそれは誰の時間なんだ? 当たり前のように「俺の時間」なんて言っているけれど、じゃあ、自分の持ち時間って全部であと何時間なんだ? 何時間あるのが「当然」だと自分は思ってるんだ? いったい何時間あれば気が済む?
 そう思ったら、それまでの自分の考えが馬鹿馬鹿しくなった。そもそも時間は誰のものでもない。自分の所有物だなんて思うことがおこがましいと思った。自分だけのものだと思うから、人に渡すのがもったいなくなるんだ。
 人はただ生きて死ぬだけだ。決められた残り時間を使っているのではない。そもそも、自分の時間なんてものはないんだ。そうわかったら、楽になった。
 何度も何度も娘のリクエストに応えて同じ本を読む時間も、郵便局や銀行で行列を待つ時間も、「俺の時間」を使っているとは思わない。どの時間も同等だし、使ってももったいなくない。というか、そもそも使っているとも思わなくなった。時間は流れているもの。使うものなんかじゃない。使うとか言うから、減ったり無くなったりするように感じてしまうのだ。
 そう思うようになってから、「したくないこと」も少なくなった。「してもいいこと」と「したいこと」の二つばかりになってきた。
 不思議だなと思う。いったんそう思うと、もとの自分の方が不思議になる。自転車に乗るようなものだ。いったん乗れてしまうと、乗れなかった状態に戻れなくなる。
 とにかく、前よりはるかに、生きていることが楽しい。前も楽しかったが、前より、もっともっと、楽しい。