楽しいモヤモヤ

 
 この夏は、すこぶる面白い作品に呼んでもらっている。役柄も面白ければ、監督を始めチームのすべてのスタッフが気持ちの良いプロフェッショナルで、毎日現場に行くのが楽しみで仕方ない。
 あんまり楽しいので、出番まで控え室でおとなしく待ってなんかいられない。支度が終わったらすぐに現場に入ってしまう。スタンドインなんか助監督にさせないでずっと現場にいる。そうすれば少しでも多くみんなと話ができるし、大好きな現場の空気を吸っていられる。
 でもいくら楽しいからと言って、すべてのシーンに勝手に出るわけにはいかないので、自分の出番が終わったら役者は帰らなければいけない。「お疲れさまー」と送り出され家路につきながら、「ああ、今もみんな楽しくやってるんだろうな。もっとあの場所に居たかったなあ」なんて、楽しい仕事ほどさみしさもちょっぴり多く感じるのが役者という仕事だ。(そんなことより次の日の台詞を早く覚えろよと言われそうだが)
 面白いことに、やりがいのある楽しい仕事の時ほど、帰り道に感じるモヤモヤも多くなることに気がついた。一日の仕事を振り返っているうちに、「あそこの言い方はあれで良かったんだろうか」「もっとこうもやれたよな」「知らないうちに急ぎ過ぎた感じになってなかっただろうか」「そもそも大丈夫か、俺?」などと、いろいろ考え始めてしまい、なんだか落ち着かない宙ぶらりんな気持ちになってしまうのだ。
「撮影が終わると、いつも家帰って一人反省会開いちゃうんすよ」とくよくよする役者に対しては、「監督がOKと言えばそれがOK。違ったらもう一回って言ってくれるんだから。終わっちゃったことを反省したって仕方がないよ!俺たちができるのは、ただその役を素直に生きることだけだよ」と日頃偉そうなことを言っているくせに、自分も急にそうなってしまうのだから、頼りないものだ。まして、今回などは、完璧に信頼の置ける監督が「OK!」と大声で怒鳴ってくれてるのだから、何も心配する必要はないのだが、でも普段に比べて確かにちょっぴり帰り道のモヤモヤは多いのだ。
 楽天的なように見えて、意外に自分に自信がないのかしらとも思うが、多分、これは、「役に立ちたい」という気持ちの現れなのだろうと思う。たいしたことない現場(こんな言い方しちゃいけなんだけど)では、自分が作品に確実に何かをプラスしているという確信がある。今回のような非の打ち所がない現場では、目指している高みがはっきりと見えているため、足を引っ張りたくないと思うのだ。大傑作になるかもしれない作品が、もし自分のせいでフツーの作品になってしまったら申し訳が立たないと思うのだ。作品を愛するがゆえの気持ちだろう。
 だから、モヤモヤを感じるのは決して悪いことじゃないのだろう。考えたら、モヤモヤをいっさい感じないで、「ああ、今日もオレ、いい演技したなあ!」みたいな清々しい顔で帰って行く役者がいたら、その方が怖いもんね。そいつ絶対大根役者だもん。だから、自分は繊細なんだと納得し、宙ぶらりんな気持ちと一生懸命仲良くしようとする。
 それに経験上、帰り道にモヤモヤが多い時の作品ほど、出来上がりは素晴らしいことが多い。完成品を観た時、「ああ、あそこはこんな風に写っていたのか。うまい使い方をしてくれてありがたいなあ」なんて感心しているうち、次第に自分の出番のことなど気にならなくなって一観客として夢中で見終わってしまい、あらら、ともう一度頭からちゃんと見直すことになる。
 きっと、良い監督は、役者を宙ぶらりんな状態にするのが上手なのだと思う。最近の現場は世知辛くて、テスト一回すぐ本番の急ぎ足が多いのだけれど、良い監督は、こちらが事前に考えてきたいろいろなパターンとは違う面白いプランをぽんと振ってくれることが多い。そして、考えてきた通りの演技をやりきった時より、監督が提示してくれたそのプランに乗っかって夢中でやった時の方が、新鮮で切れ味の良い演技になる。緊張と興奮が良い作用をするのだ。この時の興奮の残りカスが、帰り道のモヤモヤの正体なのだと思う。だから役者は、演技を思い通りにやりきるカタルシスより、自分を宙ぶらりんな状態に置いて、その場に起こることに敏感に反応するように常に自分を仕向けるべきなのだと思う。帰り道のモヤモヤはその代償なのだから、嫌がらずに、宝物だと思って我慢しなければいけない。
 ああ、それにしても、本当に完成作品を観るのが楽しみだ。きっと、夏休みのアルバムをめくるような、幸せな気持ちになるんだろうな。
 

(2018年8月)